皿井壽子先生講演会 「共に育つ」(於 半田住吉福祉会館)

平成12年11月22日 主催 愛知県土地家屋調査士会 知多支部                                               

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 皆さん、こんにちは。ただ今、ご紹介にあずかりました皿井でございます。

 私、玄米食をしているので、お昼抜きなんです。1時間立ってると、おなかすき過ぎて、ひっくり返ると

いけないので、座らせていただきます。  今日は、お招きいただきまして、ありがとうございました。

 50周年記念のそういう素晴らしい時に、呼んでいただいたご縁は、大橋さんと知り合 いになった、

そういうありがたいご縁なんですけど、私が、今まで、こうやってこの 仕事をさせていただいてきたの

は、数多くのご縁に恵まれて、ここまで来たということ、それから、障害の重い坊やとの出会いが、こう

いう大きな輪の基になったということ、それをお話して、皆さんも共に社会の中で、人間として育ってい

っていただけるといいなと思って、私の体験を話させていただきます。

 私は、特別な福祉の勉強をしたわけでもなく、専門家でも何でもないんです。

 一番初めに、子どもが大好きでして、学校を卒業したら、子どもとともに遊べる仕事が したいと思った

んです。

遊べるなんていう甘い気持ちだったんですけど。

 私は、自由学園生活学校という、東京にあります羽仁もと子先生の作られた学校、 自由学園で、少しの間学び

ました。  そういう関係で、その自由学園生活学校にいた時に、クリスマスになって、みんな 手作りのお人形を作

って、その時は、乳児院だったんですけど、クリスマスプレゼントを 持って行ったんです。

 初めて、そういう子どもたちに出会って、可愛いいだけでなく、その小さい時から、 親元を離れて暮らさなけれ

ばいけない子どもとの出会いで、その仕事を選ぶ時に、子ども と一緒に楽しく遊べる場所というのが、願いだった

んです。

 そういう子どもたちと 一緒に生活できる仕事がしたいなと思いました。

 たまたまうちの父が、熱心な生長の家の講師をしてたものですから、東京なんですけど、 谷口先生の印税で、

養護施設をやってらしたんですね、そういう養護施設があったもの だから、私が、そういう所で、働きたいと言っ

たら、父のご縁で、そこで働かせていただ いたんです。

 福祉という仕事が、どういうことすらも知らないで行ったんです。

まだ戦後を引きずっ ている時代で、戦災孤児といわれた子どもたちが、中学生にはなってましたけど、 そういう

子どもたちが、まだいる時代でした。

 私は、普通の家庭の中で、両親の愛情の下に育てられてきていたものですから、 その子どもたちとの出会い

は、想像を絶するような環境の中で、生きて来た子どもたちと の出会いだったんですね、そういう子どもたちと

一緒に、楽しくなんていう思いは、 ぶち壊されて、すごい愛情失調のような子どもたち、それも私とは、そんなに

年齢の変わ らない子どもたちに、いろんなものを要求される。

 だから、すごく大変な思いをしたのと、私は保母の仕事がしたいと思って入ったのに、 たまたま事務の仕事が

人手がないから、それをやってくれと言われまして、一番嫌な苦手 な仕事だったんです。

 今振り返って見ますと、施設を作ろうと思って、そこへ入ったわけじゃないんだけど、 施設づくりの所から、

福祉の仕事ということにつながっていく上において、そこで、勉強 させてもらったということは、すごく良い機会だ

ったと思います。  その時は、私は、これをやるつもりじゃなかった、もっと私に合った仕事があるんじゃ ないか、

事務の仕事でなくて、直接ふれ合う仕事がしたいなというふうに思ってまして、 2年程たって、名古屋へ戻って来

ました。

 名古屋で、乳児院があるんですね。  今でもあるんですけど。車道のそばの衆善会乳児院という所でも働き

ました。  今度は、小さい子どもで、3才までの子どもたちだから、ふれ合いとしては、私自身は 楽しいんです

けど、今でもそうなんですけど、福祉施設という所は、最低基準というのは、 あるんですけど、その最低基準と

いうのは、子どもたち、障害者でもそうですけど、受け とめる最低基準というのは、生きていくのが、精いっぱい

の最低基準で、人間らしく育っ たり、人間らしく生きていける最低基準じゃないわけですよ。

 ましてや、今から30年くらい前だったもんですから、子どもたちも、こういう大きい 部屋で、30人ぐらい面倒を

みてあげるんですけど。本当に一把一絡げに世話しなきゃで きないんですね。

 30人ぐらいを2、3人の保母さんで見ようと思うと、夜になると、 パ〜ッとベッドに放り上げて、パ〜ッとおむつ

して、それで寝せちゃう。  それから、ご飯の時も、パ〜ッとみんなで一緒に、食べさせてしまうということで、

その子一人一人の今のテンポ、今の成長、この子、こうしてあげたら、今育つかなとか、 この子喜ぶだろうにな

と思っても、そういうことをしてあげる暇もゆとりも全然ないん ですね。

 そこでも、胸が痛くなってしまって、時間外とか、お休みの日に、そういう子どもたち に手をかけてあげると、

同じ仲間の保母さんたちが、あんたばっかりいい顔するなとか、 あんたがやったら、私もやらんならんとか

言って、足引っぱるわけですよ。

 そこんとこでも切なくなって、子どものことを考えて、子どもの幸せのことを考えて、 働けないのかなと思って

いたんですけど。たまたまそんな時に、脳性まひの坊やが入って 来ました。

脳性まひというのは、ご存じない方もあるかもしれませんけど、生まれつき、 難産であったり、おなかの中から

障害があったりして、脳神経に異常をきたして、運動神経の異常だったり、知的障害が起きたりするんです。

 その坊や比較的軽い、今から思えば、比較的軽い脳性まひだったんですけど、 おかあさんが、その子を

置いて、置き去り、嫌な言葉ですけどね、蒸発してしまった。

 アパートで、一人放り出されていたという坊やが入って来たんですね。

 その坊やとめぐり会った時に、私が、これからやっていく仕事は、こういう子どもたち と一緒に生きていく

ことじゃないかなと、それこそその坊やに対する同情とか何とかでな くて、私自身の持って生まれた使命を

揺さぶりかけられた、そんなような気がしたんです。

 それから、脳性まひとはどういうことか、どういうふうにしたら、その子どもが楽になるのか、どうしてあげたら

いいのかというのを勉強し始めました。  たまたま私にできることは何だろう。マッサージをしてあげることだろう

か、言語治療訓練室で、そういうことをしてあげることだろうかと、勉強しながらやっていたんです。

 あるおかあさんが働いていて、下の子を産みたいけど、そういう重度の脳性まひの子 どもさんをかかえていて、

どこも預ってくれないし、非常に困っているという話を聞いたものですから、ひと夏、その学校に行ってたり、

マッサージの勉強していたりした夏休みの間中、私が預ってあげるわと、うちに連れて来たんです。

 4才になってましたけど、強い障害があって、ものすごく緊張が強いんです。

体が緊張して、つっぱっちゃうのね。それから、何かをしようとすると、反射的に動いちゃうんです。

アテトーゼの強い子どもさんというのは、今少なくなってはきてますけど、こっちを見てるから、こっちで本を見せて

あげようと思って、こうやると、反射的にパッとむこうを向いちゃうんです。

それは、自分でやりたいと思ってやるわけじゃないけど、反射的に動いてしまう。

 それから、ご飯を食べさせてあげようと思っても、すごい緊張が強くて、口があかないんです。

だから、ちょっとよそ事をやったり、くすぐったり、笑わせたりして、パ〜ッと口があいた瞬間に、スプーンでご飯を

口に入れてあげないと、その瞬間をはずすと、今度は、スプーンをガチッとくいついてしまって、今度は離せられ

なくなっちゃう。歯が欠けるか、スプーンが折れるかというぐらい、自分でやりたくなくても、そういう緊張が走って

しまう強い障害を持っている坊やでした。

 目も眼球しんとうと言って、震えているものだから、お医者さんは、この子は、長生きしないから、おうちで大事に

しなさいという切り捨てられ方をして、おうちで寝せられていたわけね。

 おかあさんは、お店をやっていたものだから、その坊やを2階に上げて、おかあさんは、下で働いているという

状態だったものですから、大事におうちでしておいてあげてくださいという切り捨てられ方は、放って置かれると

同じことなんですね。  その坊や表情豊かな坊やで、うちに連れて来て遊ばせてあげると、すごく可愛いい笑顔を

作ってくれるものだから、いろいろ遊んであげたんです。

ただ遊ぶだけ。それから、緊張が強くて、キ〜ッとなったら、一緒に抱いてさすってあげたりするだけ、私の力と

しては、そうしてあげるだけに過ぎなかったんですけど。

 言葉も出ない、目も見えない、長生きできないという切り捨てられ方をしていた坊やが、1か月間、一緒に遊ん

であげただけなのに、すごく生き生きしてきて、言葉も言えなかったのが、「ああちゃんと」というようなことを言った

んですね。  私が、「あっ、おかあちゃんと言えたんだ」と言ったら、その坊や、すごい嬉しい顔をしました。

 だから、その坊やの持っているもの、坊やが一生懸命しようと思っていても、何もできない、目も見えない、

どうしようもないと切り捨てられた坊やが、1か月間ふれ合って、遊んであげただけなのに、そういうものが出て

来た。

 その子に教えられたことは、どんなに重い障害があっても、決して、切り捨ててはいけない。

その子なりのものを持って生まれてたら、それを受けとめることをしなければいけないということを教えられました。

 今、言葉というものが、言語の発達が遅れている子どもが多いと聞きますけど、おかあさんが話しかけない

親が多いのね。子育てを知らないで、大きくなった人が、今親になっているそうだから、子どもをどう育てていいか

わからないといって、泣くからと落として殺してしまったり、そういう状態になっているんです。

 おかあさんの話しかけ、ふれ合いがなければ、子どもの言語発達というのは、あり得ないわけですよね。

 その坊やも、4才になるまで、ほとんど寝かせっぱなしで放っとかれた。

そういう状況の中で、私とのふれ合いの中で、たった1か月なのに、そういう表情を豊かにして、言葉らしきものを

出した。それを受けとめてあげた時に、その坊やは、すごく喜んだ。

 この中で、一人一人の子どもに対する言葉かけ、ふれ合いというものが、いかに大切なことか。

障害が重ければ重い程、それを沢山してあげなきゃいけないんだなということを教えられました。

 今の言語発達が遅れている子どもというのは、体に障害があるわけじゃない。

脳に障害があるわけじゃない。

でも、言語が発達するためには、人と人とのふれ合いの中で、言葉かけがなかったら、言葉は成長しないん

ですよね。  もう1つは、言葉が成長しないだけじゃなくて、そういうふれ合い、人間の言葉を通しての心の通いが

ないと、人間として育てられないんです。

 今、突拍子もない、命は何だか、死は何だかわからないから、殺してみたという人がいるけど、小さい時の命に

対する思い、ふれ合いが、乏しくなっているんじゃないかなということを今思います。

 たった1か月の間に、その坊やに教えられた大きなことは、私自身、その障害児のどうしようもないといわれて

いる子どもたちのために、もっともっと何かできるんじゃないか。1か月で、こうだったら、もっと専門的に、

いろいろ治療とか、訓練とかをしてあげたら、もっとよくなるんじゃないかと思いました。

 方々そういうことをやってらっしゃる施設とか、見て回ったり、教えてもらいたいと思って行ったんですけど、

その当時は、重度の子どもを入れてくれる施設はなかったし、今でこそ、早期発見、早期治療ということで、

愛知県コロニーなんかでもやってますけど、その当時は、お医者さんが、長生きしないから、おうちで大事にして

くださいと、切り捨てをしていた時代なので、そういうところで、受けとめてくれる施設というのもなかったんです。

 方々、回ったんだけど、ないから、それじゃしょうがない。

一緒に、そういう子どもたち、どこへも行けない子どもたちと一緒に遊ぶ場所でもいいから作ろうと思いました。

 初めは、そういう子どもさんのうちへ何人か子どもたちを連れて来て、一緒に遊ぶという、そういう出発だった

んです。  そのうち、名古屋の今池の近くに、アパートの1室を借りて、3、4人の子どもたちをお預りをする

という、そういう出発から始めたんです。  でも、今池の辺というのは、子どもを連れて外へ出ることもままならず、

6畳1間のアパートで始まったんで、4人以上の子どもは、どうしようもない。

 でも、そういう放っておかれる子ども、伸びたくても、伸ばしてもらえない子どもたちというのは、知れば知る程、

多くなってきていたんです。

私の知ってる範囲の中でも、  だから、何とか、この子どもたちが、もっと楽しくのんびりできる場所がほしい。

せめて、広々とした遊び場がほしいという願いをすごく持ちました。

 施設も入れてくれない、お医者さんも切り捨ててしまう。

それだったら、楽しく遊んであげるだけでもいいという発想だったんです。

たまたま障害児を持ってらっしゃる方で、大府で不動産業をしていらした方に、めぐり会いまして、私が、将来の夢

として語ったんです。

 子どもたちが、のんびり遊べる施設でない遊び場がほしいと思うから、いい土地があったら、捜しといてね、と

お願いしたんです。そしたら、私は、将来の夢として語ったんだけど、向こうは、商売だもんで、1週間後に、

いい所があるから、見に来ないかと言われた。

 そんなこと言ったって、お金があるわけじゃないし、将来の夢として語ったんだけど、見るだけは、ただかと思い

まして、見に行きました。  2月のすごく寒い日だったんですけど。30数年昔ですから、共和の駅の前は、田んぼ

だったり、今、愛光園がある土地は、小高い丘の畑だったんです。

 そんなとこへ、うちの両親も行ってくれたんですけど。道もないわけですよ。

農道の軽自動車が入れるかどうかの農地で、小高い丘の上だったんですけど、寒い日に、そこへ連れて行って

もらったんです。西の方に林があって、南の方は、ずうっと斜面で畑でした。

東側に、共和駅が見えるんですね。

まだ武豊線ポ〜ッと汽車が走ってました。

 こんな所へ、子どもを連れて来たら、喜ぶだろうなと思って、いいとこねと言ったら、その不動産業の方が、

こんないい土地ないから、とにかく買っとけと言われたのね。

買っとけと言われたって、お金は全然ないし、私は、そういうことをしたいと思って、そういう仕事しかしてない

から、貯金なんて一銭もないし、うちの両親は、子ども沢山いましたけど、教育熱心で、それこそ教育費は出して

くれたけど、そんな蓄えというのは、一切なかったので、一緒に行ってくれたんですけど、それは、いいに決まって

いても、お金は、どうするんだ。それから、道がこんな細い所へ、こどもをどうやって連れて来るんだと言って、

一応反対はされたんです。

 その不動産業の方が、こんないい土地は、またとないし、いよいよとなったら、わしが金貸してやるから、

とにかく買っとけとハッパかけてくださったのね。

 私も、今本当にやるべきことだったら、きっと道が開けるだろうし、駄目だったら、その時諦めればいいから、

とにかく何とか考えてみたいと言ってお願いしたんです。

 そしたら、父が、自分の生命保険のお金を抵当にして、頭金を作ってくれて、その頭金でお願いして、あとは、

今のようにローンなんてない時代だったもんだから、皆さんに、お金を貸していただくようにお願いするしか手が

なかったんです。

 しかも、その施設を作ります、寄付金募集をしますという勇気もなかった。

何ができるかわからないし、本当に作れるかどうかもわからなかったもんですから、お金をどうやって作ったら

いいかわからない。

親戚、友人、知人の方たちに、こういうことで、こういう土地が手に入りそうなので、皆さん、協力していただけま

せんかという形で、まずは、お金を貸してくださいとお願いに上がったんです。

 その時に、協力してくださった方があったものですから、今があるんだと思うんです。

まずは、その土地を紹介してくださった方、そういうふうに協力してくださった方があって、愛光園の土地が手に

入ることができたんです。

 初めの内は、そんな莫大なお金、私の頭の計算機の中には、関知しない額だもんですから、どうやって集めて

いいかわからないと思ったんです。

 とにかく子どもにとって必要なことだったならば、このチャンスを生かしていきたいと思って、方々にお願いに

上がりました。日本語って、すごいなと思ったんですけど、敷居が高いとか、足が重いという言葉がありますけど、

今は、敷居なんてあるうちは、ほとんどないから、敷居が高いと言ったって、イメージが涌かないかもしれないけど

お願いに上がる時、本当に、足が重いんですね。足が上がらない。

今だと、ベルを押す手が重いと言うべきかもしれませんけど。

お願いに上がるまでは、すごく気が重かったんです。

 皆さんが、こんな仕事をして大変だったねと言われますけど、子どもとのふれ合いで、大変だと思ったことは

いっぺんもない。その時のお金を集める思いが、一番大変だったかなと思うんです。

その時、本当にいい事だから、やりなさいと言って、貸すというよりも、要するに寄付してくださった方たちがあった

ものですから、これができたんです。

 でも、額が大きいから、半分ぐらいは集まったんだけど、もう半分は、どうしようもない。

その不動産業の方に、「これだけお金が集まったんだけど、私が、やるべき仕事ではないかもしれない。

これが、限界だわ」と言ったら、途中まで、手付まで打って、流してしまうというと、小便かかった土地とか言って、

縁起でもない土地になるから、あとの半分は、わしが貸してやってもいいから、頑張れと、またハッパをかけて

くださった。  それで、また勇気を出して、皆さんとこへお願いに上がったら、明日が契約の日だという時に、

いくら足りないんだと聞いてくださった方があって、最後の足らなかった分をポンと出してくださった方に、めぐり

会ったものですから、土地が手に入ったんです。

 本当にありがたいなと思ったんですけど、売った人も、そんなにすぐに家が建つとは思わないから、その次の

年も、買った年も、お芋が植えてありました。

 私も、せっかく皆さんの協力の中で土地買っても、子どもを連れて来るの、いつのことになるかな、ここに子ども

たち、来れるのは、いつのことになるのかなと思っていましたら、たまたまそういう話を聞いた、豊橋の方の

工務店の方が、それじゃ、わしがプレハブでも建ててやるから、お金は、いつでもいいよという形で、思わず

トントン拍子に、そういうことが決まっていきまして。

 たまたま東京オリンピックの年だったんですね。

私が、東京に肢体不自由児のための講習会や研修会があったもんで、行ってたんですけど、その間に、芋の弦

を切って、ならして、そこへプレハブを建ててもらったんです。

 子どもたちが来て、遊べる場所ということと、とにかく広いトイレを2つ作ってほしい、そういうふうにお願いして、

ささやかな建物ができたんです。

 愛光園と名付けて、昭和40年4月に、どこへも行けない子どもたちいらっしゃいという、あまり呼びかけをしな

かったんですけど、CBCがテレビで取り挙げてくれたのかな、地域の保健婦さんなんかが、ここにもこういう子

どもがいるよとか、そういうことを聞き伝えで、子どもたちが、待ってましたとばかり来ましたね。

どんなにか子どもたちが、悲しい思いをしていたのかなと思うんですけど、 お金がないから、人を雇うということも

できないものですから、私が一人で、みんなが来ると、マッサージしてあげたり、みんなと一緒に遊んであげたり

していたんです。どんどん大変になってくるもんですから、中古車を買って、その畑の上の方だから、おかあさん

が連れて来るにしても、大きな子どもたちにしたら、連れて来れなくなってきてるもんだから、中古車を買って、

送り迎えも始めたんです。

 赤土の畑の道は、雨が降るとスリップして登っていかないので、雨が降ると、開店休業になってしまったりする

んです。子どもたちが、すごく喜んでくれて、自分も行く所ができたということ、それからお友だちができたという

こと、それから、私は、どんな障害の重い子も、障害児として受けとめない、一人の子どもとして受けとめたんです。

 だから、おうちだと可哀相な子という形、それからどうしようもないという形で、1日お菓子の袋を持たされて放っ

とかれた子ども、おむつさせられっぱなしの子どもも、愛光園へ来たら、おむつを取ってしまって、トイレに連れて

行ってあげる。それから、失敗したら代えてあげる。

お菓子もおやつの時だけねというふうに、あたり前の躾というか、人間の普通の子どもの生活を楽しくする場面を

作っただけなんです。

 だけど、子どもたちが、すごく生き生きしてきて、今まで摘まれていた芽、それこそ押し潰されていた芽が、どん

どん突き上げてきて、先生、勉強したいよとか、あれがしたいよとか、いろんなことを言い出すわけね。

 もう一人では、どうしようもなくなってしまう。

しかも子どもたちが多いから、今日は名古屋方面、今日は大府方面、今日は刈谷方面と、交代で送り迎えをして

いたんです。どんどん子どもたちが多くなって、一人では、どうしようもなくなってきた時に、ボランティアで飛びこん

で来てくれて、一緒に助けてくれるような人も出て来ました。

 子どもたちが、そんなに生き生きして、喜んでやっているのに、それこそ国が認めない、県が認めない、その街

の中で受けとめてもらえないということは悲しいことだなと思って、県の方に、そういう子どもたちの施設を作って

ほしいという陳情にも行ったんですけど、そういう重度の子どもたち、切り捨てられていた子どもたちが、通って来

れる通園事業というのは、法律の中に、全くなかったんです。

 その当時、精薄児通園事業というのは、ありました。

肢体不自由児通園事業というのもできた頃でした。

 結局、通って来れる子、一人で通って来れる子。

それから、一人でトイレに行ける子しか入れてくれない。

それ以上の重度の、自分で寝返りも打てないとか、言葉が言えない、トイレにも行けないような人は、どこへも

入れてくれなかった。

 そういう子どもたちいらっしゃいと言って、愛光園は、受けとめたものですから、法律の枠がないということね、

県の方でも、どんどん子どもたちが増えてくるから認可施設にしなさいとは言ってくださったんだけど、法律の枠が

ないから、そういう重度の子どもたちを受けとめる術がないわけ。

全く無認可で、7年間、そういう子どもたちを受けとめてやってきました。

 ほんとに子どもたちが、どんどん増えてきて、どうしようもないなと思った時に、認可施設にしないと、私が好き

で、私が一生懸命やっている間はいいんですけど、倒れてしまったら、それでおしまいということでは、子どもたち

に申し訳ないので、何か、そういう県の枠の中でも、受けとめてもらえるものはないかというところで、どんどん

切羽詰まってきて、思ったんです。

 それから、もう1つ狭くなって、8畳2間では、どうしようもなくなった。

 だから、認可施設にするということも兼ねて、大きい建物がほしいという願いが、始まったら、すぐに出てくるん

ですね。

 父が、竹中工務店の青年学校長というのを戦争中してたもんですから、竹中工務店の方に、娘がこういうこと

をやっているし、認可施設にしたいと思うから、建物を考えてほしいということを、父がお願いの手紙を書いてくれ

たんです。  そうしたら、その時は、会長さんが、支店長さんに、何か言ってるから見て来いと言われたんだと思う

んですけど、来てくださって、とにかく協力しましょうという話になって、80畳ぐらいの広い板の間の訓練室を作って

いただいたんですね。

 その当時、何とかしてやれと言って、お墨付きをくださった会長さんが、亡くなってしまったものだから、支店長

さんは、全部面倒をみてやれと言われたのか、建物を建ててやれと言われたのか、中途半端で終ってしまって、

また皆さんが、寄付してくださる分をありがとうございます。

これだけお金がたまりましたという形で、建築費として出していたんです。

 いよいよ認可施設にするという時には、借入金も無認可の時は貸してもらえない、法人にならないと借入金も

貸してくれないんですよね。

借金があると、法人にもなれないんです。

どうしたもんかと思ったら、その借金棒引きという形で、寄付してくださったことになったんです。

 それで、認可施設にすることができました。

 しかも、その法律の枠がないから、一番重度な子どもたち、脳性まひの子どもたちを受けとめられるシステムは

何かと言っても、ほとんどない。

でも、肢体不自由児通園事業ということで、認可を取る。

 最重度の子どもでも受けとめるし、知的障害の人も重度過ぎると入れてくれない。

そういう子どもたちも、みんな連れて来ていたので、肢体不自由児という枠でだけでなく、どんな子どもも、他へ

行けない子は、みんな受けとめますよということを県とお約束をして、認可施設にしてもらいました。

 その肢体不自由児通園事業というのは、どういうシステムかというと、今ある青い鳥みたいな、大きい肢体

不自由児の医療機関の一部として、重度の人は、みんな入所しちゃうんですけど、軽い人は、通って来て、

そこで訓練するよというのが、肢体不自由児通園事業だから、ほとんどお金が入らないシステム、補助金が

もらえて、施設が運営できるのかなと思ったら、あにはからんや全くそんなシステムじゃなくて、1人1日通って

来ると、480円。  それで、最低基準として、看護婦さん、保母さん 事務員、お医者さん、そういう人を入れなきゃ

いけないという最低基準があるにもかかわらず、入ってくるお金というのは、それだけしかないんです。

 あとは、どうするかと言ったら、医療点数で稼げ。

そういう肢体不自由児通園事業というのは、医療機関の一部ですからね。

そう言われたって、稼げる医療費というのはないわけだし、認可施設になった途端、もっと経済的に大変、

最低基準だけは守らなければいけないということで、大変になったんですけど、国なり県なりが、法律を1つの

ステップにして、こういう子どもたちが、現実にいるんですよ。

こういうことがあるんですということを県に認めてもらう、公けに認めてもらうということの大切なチャンスだと思って

しました。

 7年目に、肢体不自由児通園事業ということで、認可されたんです。

 重度の身体障害も知的障害も、みんな入れますよと、それは、お認めいただいたんですけど、これは

児童福祉法の枠なんですね。  だから、18才以上の子どもは出なきゃいけない。

出なきゃいけないといったって、そういう重度の人たち、他へも行けなかった人たちだから、赤ちゃんから、

それこそはたち過ぎた人も来ていました。

 そんなこと言われたって、20才になったから、よくなったから出て行きなさいと言えるような状態の人は、

1人もいないし、認可施設になった途端、おとなの問題というのが出て来ました。

 子どもたち自身も、愛光園通って来てる状態の中で、いつまでも、うちで赤ちゃん扱いをされたくない、

寝せっぱなしで、放りっぱなしにされたり、親の重荷とか兄弟の負担になっていくというのが、自分としても嫌だ。

自分なりに自立していける、そういうものがほしいという願いが、子どもたちの中にも出てきてたんですね。

 それを大切にしていきたい。

そういうことが、できるといいねという夢が、認可施設になった途端に出てきて、みんなで、どうしよう、どうしたら

いいと思う?とか言って、話し合いをしていたんです。

近くに土地を少し買って、そこへうちを建てて、共同生活ができるような、みんなのうちを建てようよなんていう夢を

語っていたんです。

借金返しも大変なところ、そういうような状態の中で、運営もできないようなところで、また土地を捜して家を

建てるなんてことは不可能に近いことだったし、その時に、土地を手に入れておいてよかったなと思いました。

 7年後、8年後は、それこそ手も足も出ないように、土地が高騰してました。

だから、ありがたい時に、土地を買わせてもらったなと思ったんです。

 みんなの夢は、どんどん膨らんできていました。

 たまたま私は、自由学園生活学校を卒業したんですけど、自由学園生活学校を受けるために、名古屋にいる

卒業生は誰かと言って、訪ねて来てくださった方が以前にありました。

 その後、私は、大府で愛光園を作り、その方は学校を卒業して、東浦へお嫁に来ていたんです。

それが、今の理事長をしていてくださる日高さんなんです。そこへお嫁に来ていて、愛光園の子どもたちを連れて

遊びに来ない?牛が沢山いるし、広い牧場だから、遊びにいらっしゃいという呼びかけをしてくださったものです

から、ある日子どもたちを連れて行ったんですね。

 そしたら、ええっ、今頃知多郡に、こんなに広い空地があるというふうに牧草地だったものですから思いました。

いいとこね。こんな広い土地だったら、ちょっと貸してもらえるといいねなんていう話をその時はしてたんです。

 そんなお金もないし、そんなおいそれと借りれるもんじゃないねと言って、帰っては来ました。

ほんと切羽詰まってきた、それから親が倒れてしまって通えなくなるような子どもたちも出てきた。

先程も言ったように、自分なりに生きていきたいという願いを持つ子どもたちも出てきた。

 だから、先生、何とかあそこ借りようよ、貸してもらうようにしてよとかいって、みんなにハッパをかけられまして。

また、お願いするだけは、ただかということで、お願いの手紙を書いたんです。

 そしたら、今思うと、先輩、後輩の関係といっても、お友だちといっても、全然会ったことのない、卒業生として

会ったその関係だけの方に、お手紙を書くということは、ご主人に対して、申し訳ないことをしたなと思ったんです

けど、ご主人の方が、その手紙を読んでくださって、どういうことがしたいか聞きたいから来いと言って、電話を

くださったものですから、私、のこのこ出かけて行きました。

どういうことがしたいんだと聞いてくださったんで、「子どもたちが、どういう原因で、脳性まひとか障害の重い体

でもって生まれてきたかわからないけど、公害の問題、農薬の問題、母体を通しての問題というのがすごくある

と思うから、自然農法で、自給自足できる、そういうとこで、共に生きることができる施設でない施設を作りたい

んだ」という夢をお話ししたんです。

 そしたら、黙って聞いていてくださって、「使いなさい。」たった一言。

お願いに行っといて、あんまり簡単に言われたので、私が、びっくりした程だったんです。

「あげるんでもない、貸すんでもない、あんたの話に共鳴したから、活用しなさい。」そう言ってくださったんです。

嬉しかったですね。

 そうなったら、私だけのためじゃない、子どもたちだけのためじゃない、みんなが助け合って、生きていける

ような、いいものを作りたいという思いを持ちました。

1人だけでは、どうしようもないので、そういう協力者をみんな集まってもらって、いいものを作りたいというふうに

願って、みんなに呼びかけました。

みんなと言っても、今までの協力者とか、親たちとか、「愛光園だより」というのを出して皆さんへのお礼状の

つもりで書いていたんですけど、そこに呼びかけのものを書きました。

その文章の一端を読ませていただきます。

 「ひかりのさと」という名称について 誰もの心が、ふっとそこへ戻りたくなるような、温かい愛の光のふるさとと

なることができますように。また、「この子らを世の光に」とその理想の光をかかげられた故近江学園園長、

糸賀一雄先生の言われたように、地域社会の大きな運動の中核として、働くことができますように。

 糸賀先生の「自己実現の教育」という論文の中に、次のような言葉が載っています。

 「この子らは、どんなに重い障害を持っていても、誰と取り換えることもできない個性的な自己実現をしている

ものです。人間と生まれて、その人なりの人間となっていくのです。その自己自現こそが、創造であり、生産で

あるのです。私たちの願いは、重症な障害を持ったこの子たちも、立派な生産者であるということを認め合える

社会を作ろうということです。『この子らに世の光を』あててやろうという、憐れみの政策を求めているのではなく

、この子らが、自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて、輝かそうというのです。

 『この子らを世の光に』です。

 しかも、この子たちが、自己実現という生産活動をしているというのは、今まで述べてきたようなことばかりで

なく、もう1つ新しい生産活動をしているのです。

 重症の心身障害という限界状態に置かれている子らの努力の姿を見て、かつて私たちの社会功利主義的な

考え方が反省させられたように、心身障害を持つ全ての人たちの生産的生活がそこにあるという、そのことに

よって社会が開眼され、思想の変革までが生産されようとしているということです。

 人が、人を理解するということの深い意味を探求し、その価値に目覚め、理解を中核とした社会形成の理念を

目指すならば、それは、どんなにありがたいことでしょう。

 このように見てくれば、私たちの純粋な願いというのは、この子が、精神薄弱だからというばかりでなく、肢体

不自由でも、盲聾でも、心臓病でも、重症でも、もっと言えば、障害のあるなしにかかわらず、みんな共通の願い

でありましょう。  ですから、親たちもばらばらに分かれてしまうのではなくて、自覚した人たちが、共通の願いの

下に一致して、それぞれの地域社会の大きな運動の中核としての、役割がはたせるようになりたいものです。」

 この理念を基にして、まことの「ひかりのさと」が生まれますようにと、祈りをこめています。

 こういう呼びかけをしました。

 愛光園に、集まっていただいて、話し合いをしたんですけど、それも、2月の11日だった。

100人ぐらい集まってくださいました。

 半分ぐらいの方は、そんなうまい話があるかな、そんなうまい話があっても、いいことだからと言って、できる

もんじゃないよとか、自分のうちの子のために、それはしたいけど、そんな自分で力を出すのは、大変だという、

そういう意見もあったんですけど。

そんないいチャンスをいただいたんなら、みんなで考えようじゃないかという方が、集まってくださって、

ひかりのさとの会というのを作りました。

皆さんにお渡ししたパンフレットのひかりのさとの会の趣意書が、この裏の方にあるので、読んどいていただける

といいと思うし、これに共鳴してくださった方、ひかりのさとの会員となって、協力していただけると、 ありがたいと

思います。

 どんなに重い障害を持っていても、誰と取り換えることができない個性的な実己実現をしているものです。

人間と生まれて、その人となりの人間になっていくのです。

その実己実現こそが、創造であり、生産であるのです。

 私たちの願いは、重症な障害を持った人たちも、立派な生産者であることを認め合える社会を作ろうと

いうことですという呼びかけをして、皆さんに集まっていただいて始めました。

 日高農場の一角を貸していただいて、初めみんなで何をしたかというと、自給自足をしたい、自然農法での

自給自足をしたいから、貸していただいた畑をみんなで耕そうじゃないかといって、出発したんです。

 みんなで、1月に1回ずつ集まって耕して、種蒔いてやっても、農薬かけないから、ちょっと大きくなると虫に

喰われちゃうんですね。

もう少し大きくなると牛に喰われちゃうんです(笑い)。

 なかなか生産活動とまではいきませんでしたけど、愛光園で働いていてくれたカップルが、そこに住みこんで、

農業活動をしながら、やっていこうじゃないか、そこで共同生活をしながら、みんなで農業活動をしようということで。

 その当時から、多くのボランティアが来てくださって、この辺の方たちも来てくださった関係者もいてくださるん

じゃないかと思うんですけど、田んぼをやる、草刈りをやるというところから柵を作るというようなことまで、

いろいろ協力をしていただきながら、始めました。

 でも、そこで重度の人を受けとめる設備をどうやって整えていくかというと、日高農場だけにあって、

農業振興地区なんですね。

 だから、普通の建物は建てられないわけ。

共同生活をしたくても、立派な建物は建てられない。

日高さんとこの作業小屋みたいな所が、宅地化されて、そこにささやかなものを建てて、共同生活で出発したん

ですけど、それだけで納まらなくなる。

重度の人たちも共同生活をしようと思うと、「農振解除」をしていただかないといけない。

 「農振解除」をするためには、どうしたらいいかといったら、社会福祉法の施設を作るということになると、

優先的に解除をしてもらえるんです。

 今の法律の中で、一番重度の人を受けとめられる法律は何だろうというところで、いきあたったのが、

身体障害者療護施設ということだったんです。

 これも、身体障害者福祉法というのは、立派な福祉法だと思っていたんですけど、戦後この50周年じゃない

けど、24年からできた身体障害者福祉法というのは、元と言えば、戦争で怪我をした傷痍軍人が中心なんです。

それから、社会復帰可能な方の身体障害者福祉法だから、更生できる人が土台なんです。

 だから、重度の全く更生というか、一般社会で、一人で生きていけない人たちのための福祉法じゃなかった

ということが明らかになったんですけどね。

 でも、その重度の人は、ずうっといるわけでしょう。

親亡き後は、みんな捨てられていった。

どうしようもないと、精神病院に入れられたんですね。

そういう形で、重度の人が、受けとめてもらえる法律も、施設もなかったんです。

 そこの中で、そういう重度の人たちをしっかり受けとめるために、法律改正をしたいという運動があって、

昭和47年に、この身体障害者福祉法の一部改正で、療護施設、重度の人、社会復帰不可能な人のお世話が

できる施設というのが、ようやく生まれたわけなんです。

 そういう人たちのための生活の場ということで、この法律があるから、それを生かして作ろうと思って、頑張った

んです。

 方々見せていただくと、重度の人は寝せっぱなし、それから人手がかかるということで、狭い所で、8人部屋

とか、おむつされっぱなしとか、そういう状況の施設が、ほとんどだったんです。

 私は、そんなことはしたくない。

どんな重度の障害を持っていても、一人の人間として、人間らしく生きられるような、ともに生きる場所がほしい

という願いを持ちまして、方々の施設を見せていただいて、設計士さんも一緒に歩いてくれたんです。

 こういう所は嫌だ、こういうふうにしてほしい、こういうものを作ってほしいんだということで、設計案を立てて

もらったんですけど、お金があって、設計してもらうわけじゃないから、腹大きいですよね。

理想をどんどん言って、いいものを作ってほしいという形で、設計してもらって、社会福祉法人になってました

ので、補助金だとか、借入金が借りれたんです。

 自分たちの理想の施設を作ってもらおうとすると、最低基準の約倍くらいスペースがいるわけですよ。

 例えば、寝せっぱなしにして、おむつをしておけば、ベッドの上だけが、生活の場なんですね。

食べるも寝るもトイレも、みんなそこのまま。

 そういう最低基準でもって、人間らしく生きようとしたら、倍ぐらいスペースを取っても、まだ足りないくらい。

廊下をうんと広くしてほしい。

 昼間から電気をつけっぱなしのような施設にしたくないから、うんと光線を取り入れてほしい。

南向きで、床も全部木にしてほしい。

それから、暖房は、床暖にしてほしいってね。

今は、床暖だとかクーラーがあたり前ですけど、その当時は、そんなもの措置費も補助金も何もつけてもらえ

なかったけど、みんなが生活しやすいものを作ってほしいと。

食堂も、どんな重度の人も一緒に来て、一緒に食べれるような広いものにしてほしい。

 他の施設は、食べに来られる人だけの食堂だから、食べに来られる人なんて限られてるんですよ。

だから、50名定員の所でも、10人か20人が、食堂に集まって来たらおしまい。

あとは、ベッドの上という状態だったので、そんなことは絶対してほしくない。

ともに食べる、みんな一緒に食べるような施設にしてほしいということで、設計してもらったんです。

 その当時は、私の理想的な建物として、完成したわけですけど、結局、その時も、約倍ぐらいは、皆さんの

ご寄付とか、ひかりのさとの会の運動の中で、みんなが作り上げたお金で、やりくりして作ってもらったんです。

 そういうことで、昭和53年の5月に、ひかりのさと、のぞみの家が、今の東浦町の所に開所しました。

 どんな重い障害を持っている人も、一人の人間らしく自立のできる場所。

全介護の人だけど、一人の人間として認め合える場所にしたいというふうに思いました。

 今でも、そうなんですけど、のぞみの家の月曜日午前中は、寄り会いというのをやってるんですね。

全員集まって、みんなの思いを訴えたり、こういうことがしたいとか、こういうふうにしていきましょうというのを、

職員側から上から、こうしましょう、ああしましょうじゃなくて、みんなの思いを受けとめて、それでは、どう生活

していったらいいかということを今もずうっと続けてきています。

 初めは、すごく大変でした。  というのは、寝せっぱなしにされて、おうちで、寝たままできた人は、おうちで

大事にされていた人は、おかあさんが、赤ちゃん扱いですよね。

どんなに大きくなっても、おとなになっても、何もできないで寝ころがっているんだから、赤ちゃん扱いで、

おかあさんの思いで、いろいろしてくるわけね。

だから、その子の意見を聞いてあげた試しはないわけです。

 例えば、これおいしいよ、ご飯食べようねと言って食べさせてくれたかもしれないけど、あんた今日何が

食べたいのとか、何が着たいのなんて聞いてもらったことないわけですよ。

 だから、のぞみの家へ来て、初めみんなどうしたいのか、何をしたいのか、一人一人の思いを受けとめよう

と言った時に、面食らったかもしれないけど、一人一人の思いをしっかり受けとめるということが、どんなに

みんなを育てたかというのが、すごくわかるんです。

 初めは、言語障害の人に、あんたこういうふうか、こういうふうかと言うんで、一人一人聞いていくわけです。

言葉として出る人は、ほとんどいなくて、こっちが聞いた時に、ニコッと笑うのがイエスなのね。

ベソかくのがノーだったり、手で、これのサインだったり、ベロが引っこんだり出たり。

それで、答えをするわけです。

 それをしっかり受けとめてあげるということは、すごい時間がかかることなんですけど、それをしっかり受け

とめてあげることによって、自分の思いが育つんですね。

漠然と寝せっぱなしにされていた時は、反応も鈍いみたいだけど、受けとめてもらえなかったから、反応が

できなかっただけで、それを徹底的に受けとめてあげるようになると、すごい思いが育ってくる。

 私は、職員の皆さんに言ったんですけど、みんなが介護をする時に、同じ目線に立って受けとめてほしい。

「よく見る。よく聞く。よくする。」ということをしてねというふうに、職員にお願いしたんです。

 よく見るというのは、介護者のこっちの側から、相手が何をしているのか、何を要求しているのか、自分の

立場でよく見ること、それは徹底的によく見て、観察して、受けとめること。

 それから、よく聞くというのは、相手の思いを受けとめるということなんです。

それは、相手の思いを受けとめるということは、一人の人として認めて、一人の人間として、その思いを受け

とめるということが、今までおうちでされてなかったから、初めは戸惑ったかもしれないけど。

それが、どんなにか大切なことだったかというのが、よくわかるんです。

それを受けとめてあげた時に、同じ立場に立つというか、今までは、おかあさんが、パパ〜ッとやった、

やってもらっていた。だけど、あんたの思いは、どうかと受けとめてあげた時に、その人が、自分の思いを

育てていく。

 それから、よくするというのは、どういうことかと言うと、これは介護者の立場としては、相手の思いをしっかりと

受けとめて、それに対応して、自分がどうしてあげたらいいか、どういう援助ができるか、どういう支援ができるか

というところで、自分自身が育っていかないと、こうしてあげたらいいなとか、こういうことを言っているんだという

ことをわかっても、それにどう対応したらいいか、できない場合が多いんですよ。

 それは、初めて会った人たちだから、一人一人要望が違うし、一人一人してあげなければいけないことが

違うから、そのところでのふれ合いで、しっかり受けとめるということをお互いに、学び合いながらやってるん

です。

 いくらこっちが一生懸命やってあげても、その人の思いを100%受けとめて、100%思いのまま動かして

あげるということは不可能なんですね。

 私たちでもそうでしょう。自分でこうしたいと思っても、自分の体でさえ思うように動かないこともあるのだから、

ましてや体が不自由で、それを相手にやってもらおうと思ったら、100%満足できるようなことはありえないわけで、

しかも、聞き出してあげられる能力というのが、こちらの器にかかっているので、100%やってあげる姿勢とか

何かじゃなくて、そこのところで、ご免ね、許してねという謙虚な思いで受けとめないと、高見からの一方通行に

なっちゃうから、そこを気をつけてねという話をしながらしてきたんです。

 そういう中で、お互いを見詰め合う、認め合う。それから、みんなのことを考えられるような、心が育ってきて

いて、すごいなと思ったんです。

 それが、さっき読んでくださった20周年記念誌にも、いろんな形で出てきています。

そこのところで、職員ともども育ててもらってきた。

 それから、先程も読んでくださった中にもあったんですけど、このパンフレットの中にも書いてある、のぞみの家

へ入ってくださると、大きい額があるんですね。

そこに、「祈りてともに食い、祈りてともに働き、祈りてともに学び、祈りてともに考え、祈りてともに楽しむ」という

大きな額がかかっています。

これは、共に生きるという中の大きな指針だと思って、開所の時に、書いていただきました。

 これは、私の言葉じゃなく、後藤靜香という方の著作集の中にあった言葉で、これは人間として、幸せになる

ためには、どうしたらいいかということをすごく考えた。

考えた自然の帰結、それが、これだったというふうに書かれていたんです。

 「共に食い」というのが、一番初めにあったもんで、喜んで書いてもらったんです。

 人間が、幸せに生きていける原点は、ともに食べることだよ、そういうふうに書かれているんですね。

 そうですよね。戦争であると、ともに食べれない、喧嘩しとったって、ともに食べれない。

お金を持った金持ちだけが、自分だけ食べちゃう。

そういう場面が多いし、飢餓状態の人たちがいるということは、ともに食べることをしない社会の中での大きな

不幸ですよね。

ともに食べるということが、すごく大切なことだと。

 祈りてと書いてあるもんだから、見学に来てくださる方が、クリスチャンですかとか何とか聞かれるんです。

 この言葉を書かれた後藤靜香という方は、クリスチャンだったかもしれませんけど、 私は、クリスチャンでは

ないんです。

 そこの本の中に書いてあった言葉は、祈りてというのは、権力だとか、お金だとか、力で、ともに食べるん

じゃない、祈りてというのは、大きな自然の中で、ともに生かされている、その命に対して、謙虚な思いが、

祈りてなんだよと書かれてあったものですから、すごく私は嬉しくて、これを書いていただいたんです。

 私たちが、自分が元気で生活をしている。お金も十分でないにしても、不自由をすることはない。

それから、自分の頭も力も十分とは思ってらっしゃらないかもしれないけど、それなりに自分でやっていると

思ってるでしょう。

自分で、何でも生きていると思っているけれど、本当は、そうじゃない。

 やっぱり大きな力の中で、生かされている、命をいただいてともに生きているんだという、そういう大きな根っこ

のところに、謙虚な思いを持って生きるのが、祈りてだというふうに書かれていて、すごい言葉だなと思って書いて

いただいたんです。

 ともに食べるというのは、今もやってますけど、のぞみの家の広い食堂へ、みんな集まって来て、全介助で、

食べさせてあげなくちゃいけない人が、半数以上います。

 しかも、口が上手にあけられなかったり、咬めなかったりするんですけど、どんなものもともに食べるということで、

みんな一緒に集まって来て、職員が、食事介助の時間でなくて、ともに食べる時間なんですね。

 4、5人の方の面倒をみながら、自分も一緒に食事をしながらするんですけど。  特別食というのが、体に応じ

てはあるんですけど、どんなものも一緒にテーブルのところへ持って来て、咬めない人は刻んであげたり、潰して

あげたりして、一緒に楽しくいただく。

その交流の場でもあるんです。

それは、みんな大切に思っていて、ずうっと続けてきたんです。

 この頃実習生が、大勢入って来て、若い可愛いい女の子なんかだと、たまには一緒に食べてなんて言う人も

あるけど、介助する方は、初めての人は、どうしていいかわからないし、緊張して、自分がいかに上手に食べ

させるかということに懲り固まっているから、食べさせてもらう方も疲れちゃうんですね。

 その食事時間に、交流しながら食べるということが、どんなに大切なコミュニケーションかということがあるもの

ですから、うちは、ともに食べる実践を今でもさせていただいてきてるんです。

 ともに働くなんて、そんな障害が重い人たちが、どうして働けるのかというのが、問題なんです。

 人間の生き甲斐というのは、障害があろうとなかろうと、そうだと思うんです。

働くというと、つい金儲けのこと、成果を期待することが、働くことだと思ってるんだけど、そうじゃないんですね。

こういう障害の重い方たちと一緒に生きていると、命の活動が、働くということなんだなということをすごく思わされ

ます。

 何かしたくても、自分の力だけではできない。

いろんな補助具を考えてあげたり、手助けをしてあげたりすると、何もできなかったことが、どんどんできる。

その喜びというのは、すごい大きいです。

 その働くということ、学ぶということも、学校嫌いで、勉強嫌いという人も多いけど、学ぶということ、それは成長

するということですよね。

 それは、本能的に持っていることで、しかも摘まれてしまった、その機会を与えられなかった人たちは、そういう

機会をすごく待ち望んでいるんです。

 それを受けとめてあげる周りの手がないと、しっかり受けとめてあげられませんので、職員が、一人一人考え

て、どうしたらいいかというのをみんなと一緒に考えて、時間割を作るんですね。

 だけど、職員だけではやっていけないので、自分の休みの時も使ってくれるんですけど、大勢のボランティアの

方が、一緒に係わっていってくださいます。

 ここの中にも、ボランティアで来てくださる方も、何人かあると思うんですけど、その命を受けとめる環境づくり

を、しっかりしていかなければいけないなと思いますし、どんどんいろんな形で、その人たちは、心も思いも成長

していって、のぞみの家が、障害の重い人たちの自立の場、その人が安心して生きていける場と思って作った

んですけど、今や、ものすごくみんなが成長してきて、施設の中で、一生を終りたくない。

自分なりに生きていきたい。

それから、あたり前の結婚もしたい。

地域社会の中で、生活をしていきたいという、あったり前の願いなんですけど、今までは、そういう願いすら

持たされなかったというか、持つ環境でなかったのが、持つようになったんですね。

 それをまだ私たち十分に受けとめきれないでいますけど、その施設の中だけ、ひかりのさとの中だけでは、

受けとめ切れないものだし、受けとめていちゃいけないもの…。

 …どんなに経済的裏付けがあっても、一人の社会人としては、認めてもらえない。

そういうことになっていくと思うので、ひかりのさとの会の運動の中では、そういう方たちとのふれ合いを大事に

していってほしい。

そういう輪を広げていきたいという運動をしています。

 この間、11月3日も、バザーをしたんですけど、経済的な裏付けもほしくてやるんですけど、地域の方が、

2000人ぐらい来てくださって、10時から12時までの2時間ですけど、300万円近い売上げをさせていただいて、

そういうのは、1年通して、バザー委員会があったり、ボランティアの方が、手づくりをしてくださったり、ものを

送ってくださったり、そういう形で、支えられてきているんです。

 そこの中で、お互いにふれ合っていく、交流していく中で、ボランティアの方も、命の大切さとか、体が不自由

でも一生懸命生きている、その生き様を見て、いろいろ学んでいってくださる、ともに学ぶということをしていて

くださる、ありがたい場所だなというふうに思っています。

 それから、祈りてともに考え、これも、難しいと言えば、考えられない人もいるからね。

 50人一緒に集まって、みんなで話し合いをしてるでしょう。

外出問題でも、口が達者な人、頭がいい人はどんどん言うけど、自分で、個人外出なんかもボランティアを

捕まえて、行けるようにはなってきているんです。

 じゃ、言えない人たち、自分たちが、どうしていいかわからない人たちのことも一緒に考えようじゃないか。

そういう人たちは、どうしていってあげたらいいのかというのを住人さんたちの方から、(私たちは、そこに

入所してる人たちを住人さんと呼んでますけど)住人さんたちの中から、そういう問題提起があって、みんなで

話し合って、そういう人たちが、一番喜ぶようなグループ外出をこういうふうに企画しようとか、そういう形で、

いろいろやってます。

 初めの頃は、ともに何でも一緒にやろうというので、海水浴へ行くのも、1泊旅行をするのも全員で、必死で

やっとったんですけどね。

職員も若かったし、私も若かったんで、徹夜興業でも何でもやっていたんですけど、段々私も年取ってきて、

それにとてもついて行けない。

 それから、職員も、老齢化もしてくるし、住人さんたちは、高齢化に向かってますので、みんなでワ〜ッと

やるんじゃなくて、自分で自分のテンポでしたいという思いは、すごく出てきているのね。

それは、それで受けとめていかなければいけない。

 もう1つは、最高のものをということで、すごく考えて作った建物ですけど、集団生活を守るという姿勢の中で、

4人部屋であったり、2人部屋もあるんですけど、自分で活動をする場がないということで、みんなが個室化

してほしいというものが出てきて、今そのことで、話し合いをして、自分たちもお金をためたりして、増築計画を

始めているんです。

 そういうふうに、みんなが生活をしやすい、自分たちが、生きていきやすいものをみんなで考えて、みんなで

話し合って、作り上げてきた、歩んできたのが、ひかりのさとの歩みです。

 祈りてともに楽しむと最後に書いてあるんで、楽しむことぐらい簡単と思うかもしれないですけど、重度の人

を核にして、ともに楽しもうとしたら、すごいエネルギーがいるし、人手がいる。

例えば、1泊旅行でも、遠足に行く時でも、準備するのが、引っ越し荷物ぐらいあるんです。

 うちは、どんなに重い人も、おむつをしないで、必ずトイレに連れて行ってあげるということをしている。

初めは、トイレは何をする所ぞと思っている人もいるわけね。

それで、必ず時間を見測らってトイレに連れて行ってあげて、失敗したら、すぐ代えてあげるということで、時間を

見測らうとできるようになっていく人もあるし、そういう形で、トイレの自立が、1つの自立につながっていくという

形で、受けとめているんです。

 遠出をしたいとか、自分で個人外出をする時に、みんなに迷惑をかけたくない、ボランティアの人に頼めない

場合は、おむつをしてくれと、自分で選択して、おむつをあてて外出するようになったり、いろんな形であるんです。

 ともに楽しむということの大切さ。

そういう遠足に行ったり、1泊旅行に行ったり、海水浴に行って来ると、みんな喜ぶし、職員もヘトヘトになって

帰って来るんですけど、みんなの喜びを見て、またやろうねという、そういうパワーが、職員の中にあって、

すごいなと私も思わせられたんです。

 ともにということが、いかに大切なことか、いかに人間同志の幸せにつながっていくことかということをすごく

教えられております。

 もう1つ、食生活の中で、先程も言いましたけど、体をよくするということ、人間の幸せの原点が、ともに食べる

という中に、体にいいものを大切にして、ふれ合いながらいただくという心の面での滋養にもなっていくということ

が必要だと思うんです。

 いろんな形で、ひかりのさとでも、講演会をしてもらうんです。

どうして、そういう障害児が生まれてくるのか、どうしてそういうことになったのかという話もしてもらったんです。

 一度、大学の先生に、農薬の問題とか、添加物の問題をお話しいただいたことがあったんです。

だいぶ前なんですけど、本当に添加物が悪いということがわかっていたものですから、昭和37年ぐらいだったかな。

添加物を来年からやめるという号令が出る寸前に、それをバ〜ッと使った時期があったんです。

そしたら、無脳児が、パ〜ッと増えた。

これは、必ずそれとの関連があるんだといわれたんです。

 脳性まひの原因が何であるのかわからないんですけど、今40代、50代になっている人たちは、私が、その当時

脳性まひの坊やに出会った頃は、重症黄疸による脳性まひの子どもが非常に多かったんです。

 というのは、黄疸が強くて、おかあさんとの血液の不適合だとか、そういうことで黄疸がひどくて、アテトーゼが

強い、重症黄疸によっての脳性まひの子どもが、非常に多かったんですけど、それは、それが原因だということが

わかって、産婦人科のお医者さんが、ちょっとでも黄疸がひどいと、光線療法なんかをしてくれたり、重症の場合は、

血液を交換してくれたりするようになったものですから、重症黄疸によるアテトーゼの強い脳性まひの子は、

激減しました。

 だから、障害児が減ったかというと、決して減ってません。

その無脳児の問題とか、フニャフニャの子どもが増えている。

 これは、添加物の問題、農薬の問題にかかわりがあると思うんだけど、運動神経まひを起こしているわけじゃ

なくて、筋無力症の状態。表情筋も何も動かないんですよ。

だから、全く反応がないみたいだから、知恵もないというふうに思われてしまっているんだけど、そんなことはない、

ちゃんとわかっているわけ。

 言葉でも、口が、筋力がまひしているから、まひじゃない、筋力がないから動けないだけで、しゃべれないわけ

ですね。

 愛光園へ来て、マッサージをしたり、玄米食を食べたりして、いろいろな形で変わってくると、表情が出てくる。

 それから、ある日突然言葉が出てくる。

わ〜っとしゃべるんです。

どうしてそんなに突然にしゃべるの?

ということがあるんですけど、頭の中には、みんなインプットされているわけね。

ただ、ここが動かなかったから、言葉として出なかった。

それが、ひょいと出るようになる子が何人かいて、びっくりしちゃったんです。

 その大学の先生は、こう言われました。

そういうものが、一番農薬や公害なり添加物の問題で、被害を大きく受けるのは、胎児だと。

胎児のところへ、みんな行っちゃうんですって。

 だから、今第1子の流産が多いですよね。

 それが、子どもたちが引き受けて、農薬や公害の害を胎児が引き受けて流れていくから、女が長生きするん

だと。毒物をみんな流してくれたから。男は、早く死ぬんだと、その先生はおっしゃった。

 それは冗談かもしれませんけど、私はそう思いました。

第1子が、みんなその悪いものを引き受けて流れてくれて、その次には、本当にいい子が生まれてくれるように

という神様の愛じゃないかなと思ったんです。

親たちが、それを知らないで、平気で添加物のものを食べたり、アトピーの子が、いっぱい出てくるでしょう。

あれは、おかあさんの食べ物が悪い。

 それから、今の若い子たち、コーラとかアンパンですませてしまっている。

朝ご飯を食べないで来ているという、基本的に体が作られない。

 だから、第1子が流産するぐらいならいいけど、その次の世代になると、赤ちゃんが産めない人が、増えてくるん

じゃないか。

子種ができない男が、増えてくるんじゃないか。

 そういうことをすごく恐れますけど、人間の命を見詰めて、人間の命を大切に育てようと思ったら、食生活を

大事にしなかったらいけないということは、基本的な幸せの原点に立ち返って、考えていかなければいけない

問題だと、私は、子どもたちに教えられていますし、そのことを実践したいと思って、ひかりのさとでは、広い

農地を貸していただいたのでね、  稲も1本植えです。

農薬をかけないで、草取りもやっています。

職員やボランティアが、汗流してやっています。

他の所よりは、収穫は少ないかもしれないけど、体にいいお米を作って、自給自足をしたいという思いは、

どうしてかというと、戦争中に生まれた子どもたちというのは、ほとんどいないですね。

ひかりのさとでも。

 昭和17年から20年生まれの人は、1人もいません。

その前や後は、いるんですけどね。

たまたま戦争中の時に、そういう障害児を殺してしまったかというと、そうじゃない。

その時は、元気で生まれた子さえ、栄養失調で死んだ時代、栄養失調で死んだ役人もいましたよね。

 そういう時代だから、わざとしたわけではないけれど、何かあった時に、一番弱い立場のものが、みんな

そういうものを受けて、消されてしまったり、その胎児じゃないけど、一番身に引き受けて責をはたしてくれて

るんだなということを思ったから。

 地震なり、それこそ戦争なんかあっちゃ困るけども、何か事があった時に、自給自足して、最低の所を

みんな守れるだけの自給自足がしたいというのが、初めの夢でした。

日高さんにも、そういうお話をしたんです。

 その自給自足ができるようにという形で、職員が、それも時間外もあるし、勤務時間中もあるんですけど、

田んぼ耕したり、稲植えたりする。

住人さんたちも、その時は、放ったらかしにされるかもしれないけど、稲を植えるのを見る協力をしてねとか、

そういう形で、食生活の係わりを大事にしてきました。

 私が、その玄米食を始めたのは、愛光園をやっていた時に、一人で、何もかもしなければいけない。

送り迎えして、帰って来ると、疲れはてちゃって、お茶をガブガブッと飲んで、甘いものを食べて、ひっくり返っちゃう

という、そういう生活だったんです。

 たまたま、その時に、玄米食を勧めてくださった方があって、話を聞きに行ったのね。

 そしたら、騙されたと思って、やってご覧と言われたんです。

その効能たるや、丈夫で長持ちするということ。

それから、睡眠時間が少なくてもすむと言われたので、これはしめしめと思った。

 それから、記憶力がよくなる。

これも、すごいと思ったけど、この記憶力は、ちょっとあてになりませんでした。

 本当に、睡眠時間が少なくて、私痩せているみたいでしょう。

丈夫で長持ちして、よく働かせてもらったなと思うんです。

玄米食の効果って、すごいです。

 だから、ひかりのさとを始めた時も、みんな共同生活をする人は、玄米食を一緒に食べようねという形で

始めて、ひかりのさと、のぞみの家、施設を始めた時は、初めから玄米食を強制するという勇気はなかった

ものですから、玄米と白米と、両方炊いて、出発したんです。

 玄米食べると、おなか持ちもいいし、お通じがよくつくんですね。

それだから、先入観のない人たちは、体が気持ちいいから、玄米食を喜んで食べるようになる。

 先入観があって、玄米食なんか食べられるか。

戦争中に、嫌な思いをしたなんていう人は、あまり食べてくれないんです。

 その体が、いいことを無条件でやってくれると、素直な人たちが、それで、進んでいくし、おなか持ちがいい

ということ、それからバランスよく栄養価が取れるということで、のぞみの家で、それを徹底してやってきて、

この22年間の中で、障害の重い、重度の方が多い方で、亡くなった方は、5人しかいません。

 他の施設は、年に5人ぐらいは亡くなるから、出入りが多くて、入所待ってますと言って、待たれるのがあるん

だけど、うちは、入所待つというのは、死ぬの待たれるのと同じことだからと、お断りしていたことがあったんです。

 玄米食というのは、みんなの健康を保つ土台になるなと、私は信じてやっております。

 そういう食生活、その食べ物を厳選する添加物のないもの、手作りのもの、お野菜も取れたもの、養鶏も

やっていて、他の養鶏場は、薬漬けで、卵が薬臭いというような卵もあるそうだけど、鶏舎の中走り回っていて、

添加物のない餌をもらって、やっているんです。

しかも有性卵でやっているので、すごくおいしい卵です。

 そういう食べ物のなかみも厳選して、ともに食べるということ、それから寝たままにさせないということが、

健康の土台になっているんじゃないかなと思ってます。

 それも、みんなが、どうしようもないという思いじゃなくて、自分がしたいこと、自分の生き甲斐を求めて、

日常生活ができるということが、健康の基になるんじゃないかなというふうに考えています。

 みんな人間、欲望に切りがないので、どんどん欲望がエスカレートして行って、これがしたい、あれがしたい、

あっちへ行きたい、こっちへ来たいという夢が、みんな当然だと思うんですけど、広がってきて、大変だなと思って

見ている部分もあるんです。

 そういう障害の重い方たちを核にして、どういうふうに生きていったらいいかということを考えながら、私たちは

生活をしてきました。

 しかも身障療護という形で、53年に作ったんですけど、ここは、障害者手帳がないと入れない所なんです。

 のぞみの家に来た人の残りは、愛光園にいたわけです。

まだ小さい時代の子どももいたし、重度の知的障害の人、他の施設に入れてもらえないような、自閉的な、

暴れまくる人とか、そういう人もいて、どうしても、その人たちのための施設も作ってほしい、作ろうじゃないか

という、職員や親たちの願いの中で、60年に、『まどか』という知的障害の施設ができました。

 ここは、40名定員でできたんです。

 そこでも、その障害の重い方たちの生活をともにしていく中で、その人なりの活動の場を作っていく中で、

職員たちは、この人たちを一生施設に閉じこめておいていいものかという疑問を持ち出して、この人たちの

生活の場を地域の中にも、働く場も作っていきたいという願いを、職員が中心になって持ち出して、小規模作業所

を作ったり、グループホームを作ったりして、活動の輪を広げてきています。

 その辺で終りかなと思っていたんだけど、今度は、その小規作業所だけでは、足りなくなって、授産施設が

できました。

 これは、11年開所なんですけど、これ是非皆さん、折りがあったら来てみてくださるといいと思うんです。

そのひかりのさと、日高さんの農場の一角を貸していただいた、つい最近は、前の理事長が亡くなった時に、

土地を寄付してくださったものですから、愛光園、土地持ちになったんです。

広い活動の場を与えていただいたものですから、授産施設というのができてますね。

 養鶏やったり、パンづくりをしたり、『くるみ』というお弁当屋さん、それもできました。

お昼も食べることができるし、そこでやっているコーヒーが、すごくおいしいので、折りがありましたら、覗いてみて

くだすって、ひかりのさとの活動も知っていただけると、いいなと思います。

 みんなが、楽しんでやってますし、そういうのが、どんどん障害の重い人たちを核にして、動きが出始めている

んですね。

 身体障害者の療護施設の方も、そういう重度の方たちだから、一生そこに生活の基盤を持っていればいいと

思っていたのが、地域の中で生きたい、自立がしたいという願いが大きくなって、『びわの木』という福祉ホームも

できました。

その福祉ホームで、全介助が必要な重度の障害を持った人にもかかわらず、療護施設から飛び出して、そっちで

生活をしながら、ボランティアの方に助けていただいたりして、授産施設の方へ働きに行って、自立をし始めました。

 そういうことが可能な施設、それからこの間もみんなで話し合ったんですけど、そういうことをさせていただける、

福祉法人というのは、少ないのね。

というのは、どういうことかというと、理事長さんなり、理事さんなんかがお金もち、お金も権限も持ってらっしゃると、

施設運営を第1にして考えるから、施設運営の成り立たないような受け入れ体制というのは、不可能だよという

ふうに切り捨てちゃうんだけど、うちは、初めからお金もないし、子どもたちを中心にして動き出した所だから、

今この人たちに、これが必要じゃないか、こうしていかなきゃいけないじゃないかというと、法律も何もないことを

し始めちゃうんです。

 もう1つは、今『らいふ』という形でやってますけど、これは知多半島全域にわたって、レスパイトサービスし

たり、おかあさんが疲れてしまった時に、お預りしたり、地域の中で自立できるような、援助をし始めている

らいふという働きもあります。

 そういうふうに、自分たちが、しなければいけないじゃないかということが出てくると、それじゃ、どうしてやって

いこうか、どういうふうにしたら、やれるかということで、できるのは、何もなかった法人だからできるし、今の

理事長さん初め、理事さんたちが、それを容認しててくださるからできるんですけど、もう1つは、ひかりのさとの

運動がバックにあるから、そういうことができるんじゃないかなというふうに思ってます。

 ひかりのさとの輪を広げていって、地域社会の中で、さっきも糸賀先生の文章のところにあったように、地域

社会の核になって、人間社会がよりよいものになっていく運動を続けていきたいというふうに思っています。

 皆さん、能力のある方、力のある方、知恵のある方だから、自分は別だと思ってらっしゃるかもしれない。

障害者は別だと思ってらっしゃるかもしれないけど、人間というのは、みんな同じだと思うんですね。

 一人一人神様から命をいただいて、使命をいただいて、この世に生まれてきて、生きていくんで、金儲けする

のがうまい人とか、今首相がどうのこうのと言ってますけど、首相になる人が偉い人じゃなくて、みんな同じ命で

すよね。

どんな偉そうな顔していても、死ぬ時は死にますよね。

 そういう自分で生きているみたいに思うけど、命の活動の場を与えられ、命を見詰めるということのために、

私たち、この世に生まれてきているとしたら、障害あるなしにかかわらず、同じ土台なんです。

 それが、どうして人間らしく生きるか、人間の幸せになるかということを考えた時に、『ともに』ということが土台に

あるし、競争だとか、差別だとかというところは、人間を不幸にする原点なのね。

 戦争、平和と言ってるけど、平和を勝ち取ろうなんて、平和じゃないのにと思うんですけど、相手のことを思い

やる、同じ人間として受けとめるという姿勢が、お互いに出てきて、みんなが幸せになろうという努力がなかった

ら、本当の幸せにはならない。

 今、私、簡単に神様なんて言っちゃいましたけど、この大自然の働きの中で、生かされている私たち一人一人

の命、大きな命の中に、生かされているという思いを持って生きていけば、今のイスラエルの戦争じゃないけど、

宗教戦争が元でしょう。

民族にしても、宗教にしても、自分と違うことを認めない社会、自分と考え方が違う所は、無視してしまう、駄目だ

としてしまう人間の考え方が、不幸に陥れていると思うので、その幸せになるような命を見詰め合った生き方が

できれば、こんな幸せなことはないと思います。

 そういうことを障害を持った重い子どもたちとともに、一緒に生きてきて、教えられてきています。

 皆さんから、いいものばっかりいただいて生きてきたわけだから、こんな幸せはないなと思いますし、障害を

持った方たちの精いっぱいの努力の姿を見ていると、すごいなと思います。

 私、パソコンなんて、全然できないんですけど、口に棒を銜えてパソコンをやったり、足に棒でやったり、すごい

ですよ。

みんな、その努力たるや、言葉が言えない、声が出せない人もいるわけね。

 字を一生懸命覚えて、それで、パソコンまでいかない人は、トーキングエイドというのがあるんですよね。

それを押すと、電気がカ〜ッと走るわけ。

あの行へいった時、ポンと押す。『い』が打ちたいと思ったら、下へ走ってくる。そこへ『い』と押す。

今度、『の』と押したかったら、な行の所まで走って、それでポンと押す。

それで、『の』の所まで下ろして、『の』という。

そういう努力をして命というのを打つわけです。

 そういうので、自分の思いを相手に伝えたいという願いというのは、すごいみんなの中にあって、すごいなと

思うんです。

 そういう表現をするものを受けとめていける、相手の思いを受けとめていける状態というものを、もっともっと

作っていってほしいなと思います。

 だから、皆さんが、知らないから可哀相な人とか、どうしてあげようもないわと思ってらっしゃるかもしれない

けど、そんなことじゃなくて、同じ人間の仲間として、そういう人たちの思いを受けとめてくださればいいんで、

特別視をしないで、やっていけたらありがたいなと思っています。

 今度、ひかりのさとの例会の1つとして東浦町の文化センターで、『エントコ』という映写会をします。

 これは、遠藤さんという人が、地域の中で生きていく、その遠藤さんの所に集まる人というイメージと

、縁がある所、そういうイメージの映画だそうなので、こういうことも興味ある方がありましたら、見ていただき

たい。

 私、今、切符持ってますけど、1000円で皆さんに見ていただいて、12月の10日というのは、障害者の日なんだ

そうです。

だから、障害者の日なんていうのを作ってほしくない。

 障害があるなしにかかわらず、ともに生きられる社会にしていきたい。

そういう意味で、ひかりのさとの会の運動もしておりますので、どうか共鳴してくださった方、協力しようと思って

くださる方は、ひかりのさとの会員にも入っていただけると、ありがたいなと思っています。

 ささやかな体験でしたけど、本当に大勢の方たちの援助によって、ここまでこれたということ。

その輪がどんどん広がって、皆さんが幸せになれる世の中にしていけたらありがたいなと思っておりますので、

どうぞよろしくお願いします。

 今日は、本当にありがとうございました。