1992年度知多・チタ友好事業について 知多青年会議所
                         理事長  大橋真人

ロシア語アワー..               国際交流委員会 
                         委員.   松田和広

ホームステイ(於 チタ市)

墓参.                      副理事長.竹内栄道     

第2回知多・チタ友好視察団 参加者名簿


1992年度知多・チタ友好事業について  

知多青年会議所 理事長  大橋真人

 名前が同じという切り口で始まったこの事業も素晴らしい成果を収めて今年も終わりました。これも、ひとえに、森岡文彦委員長をはじめとする国際交流委員会ならびに竹内栄道副理事長、そして参加・協力をいただいた多くのメンバーのおかげと感謝いたします。

 ちょっと素敵なまちづくり、それは「素敵な顔」を持てるまちづくり

我々は、この事業を通して、知多市にちょっと「素敵な顔」を作ろうと思っています。常滑沖に21世紀初頭、「知多」国際空港が開港したとき、知多市には、「ロシア通り」があり、そこへ行けば、ロシア風町並があり、ロシア料理が食べれて、ロシア民謡が聞けて、ロシア民族舞踊が見える。そして、知多市の市民には、ロシア語が話せて、ロシア文学をこよなく愛する人が多い。ロシア人は「知多」国際空港を降り、必ず知多市へ来る。

こうしたことは、ちょっと「素敵な顔」であると思います。

第2回知多・チタ友好視察団の派遣

 この視察団の目的には2つの大きな目的がありました。1つは、シベリア抑留で亡くなられた方々への遺族の墓参のサポートであり、いま1つは、知多・チタ友好交流の拡大でした。特筆すべきは、第2ノーバヤ墓地の所在の確認とその後の厚生省の遺骨収集作業の実施でした。これには、中日新聞社の妹尾氏、東京新聞社の日比野氏、厚生省の池口氏、天野鎮雄氏、その他多くの方々のご協力がありました。我々の事業が契機となり、各方面にいろんな波紋を生じ、それが結果良い実を結んだ一つの事例でした。
 西尾市の辻さんは、カダラの第1墓地に墓参されるにあたって、亡くなられた方へ、お孫さん(辻さんの娘さん)が書いた手紙を持参してみえました。それを読ませていただき、我々は平和の尊さを改めて思い知らされました。そして、この行程の中、辻さんの目が涙で赤くはれていることに気づかない者はいなかったと思います。我々は、辻さんの一言一言から多くのことを学ばさせていただきました。
 遺族の方々の戦後47年経過して初めて墓参がかなった意義と、シベリア抑留という問題を考えるにつけ、今後も遺族の墓参のサポートを続けていくことが大切であると思います。

今年のプログラムでは、チタでの滞在期間を長くとったことで、意義ある交流が出来たことをうれしく思います。


ピョーネル宮殿、ピョーネル・キャンプの見学は、チタの子供達との交流およびチタの教育制度、文化・芸術を学ぶうえで意義のあることだったと思います。そして、何よりも良かったことは、知多市の小・中学校から絵、作文、文通を800余チタへ持って行くことが出来たことです。この件では、竹内順夫先生はじめ、市内小・中学校の校長先生には大変お世話になりました。そして、チタからいただいた絵、作文、工作を各学校に配布させていただきました。こうした交流が拡大していくことこそ、知多・チタ友好事業の大きな意義かと思います。そうした意味で、今後、子供達どうしの交流を展望していきたいと思っています。
 もう一つの特色として、ホーム・ステイを体験しました。9家庭に1人ずつ滞在しました。家庭の情況が外からでなく中から見られたことが良かったと思います。この成果が、訪日団を受け入れた際に大変役に立ったと思われます。

訪日団の招請とホーム・ステイの実現

昨年と同様、ビザの発給の件で外務省外国人課の起山担当官には、大変お世話になりました。7月に訪ロし、帰国時に訪日団のリストを受け取って来ました。その後、招待状をテレックスで打ったものの、手続きを開始したのか連絡がありませんでした。

8月26日
夜 通訳の田中かな子さんより電話があり、イルクーツクのインツーリスト・ホテルでコヴァレバ・アントーニナさんとキム・リーマさんと偶然出逢い、口頭で訪日団のメンバーを変更したい旨を伝えられたとのこと。

8月27日
テレックスを打ち確認しました。その後、新招待状(インビテーション)を打ったわけです。この間、約1ケ月のロスがありました。

9月11日
出国ビザの手続き。

10月5日
外務省外国人課に書類届く。同日、森岡委員長と書類を外務省へ提出。15日あるいは、16日に処理を完了する旨起山担当官確約。ナホトカに2・3日後に取りに行くように伝えなさい。

10月21日
イルクーツク発Am8:45 アエロフロート航空 SU871便 搭乗。

つまり、何が言いたいかというと、今回の招請も田中かな子さん、起山担当官、そしてナホトカ総領事館の川下担当官、この方々のご協力がなかったら出来ませんでした。1日違いで不可能ということになってしまう可能性だってあったわけです。「偶然はなく、すべて必然」ということばもすごく説得力を持って来ます。
チタ市の訪日団のメンバーは事情により、4名になってしまいましたが、知多とチタの交流の拡大に大きな役割を果たしていただけたと思います。具体的には、知多市内小・中学校訪問による交流、ウェルカム・パーティー、産業祭りにおける「ミス・チタとロシアの民族タイム」、「クイズ 知多とチタ」、による交流、そしてホーム・ステイによる交流等々。
交流の原点は、あくまでも人と人であることを思うとき、ホーム・ステイが実現できたことの意義は大きいと思います。立派なホテルに泊まっていただくこともいいかもしれません。しかし、そこからは、交流は拡大していかないと思います。地道な努力」の積み重ねがなにより必要なことと思います。来年は、知多市民の家庭にホーム・ステイして欲しいと企画しています。

日本青年会議所 東海地区協議会 「地球づくり推進賞」 優秀賞
日本青年会議所 「国際交流推進賞」 褒賞エントリー

我々は、この事業の意義と今後の展望を再確認する意味で、「知多・チタ友好」事業を以て褒賞にエントリーしました。結果、東海地区内各地青年会議所、日本青年会議所から高い評価と称賛のことばをいただきました。今後、この事業をする励みになるかと思います。
また、知多青年会議所として、プランニング・10という今後10年間を近未来としてとらえた時の、目標の一つに「知多・チタ交流の継続、発展」を決定しました。今後、この事業を進めるにあたって、メンバー一人一人の英知と情熱が必要と思います。宜しくご支援の程お願いいたします。

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ロシア語アワー           国際交流委員会  委員 松田和広

知多青年会議所の2・3・4・6・7・9月例会の最後の約10分間ロシア語アワーを開いた。ほとんどのメンバーはロシア語が初めてである。テープを流しそれに続いて皆で声を出して繰り返す。聞き慣れない言葉、耳慣れない単語に最初のうちは戸惑って声が小さい。しかし、何回か繰り返すうちにロシア語の響きに馴染んでくる。とにかく、一年間で、最小限あいさつと簡単な単語だけは覚えて欲しいので、利用度の高い実践的な言葉を覚えようという思いを持ちながら講座を進めていった。

10月、ロシアから訪日団が来日。その時、多くのメンバーはロシア語であいさつをしてくれた。前向きに勉強してくれた成果なのである。そんな場面を見たとき、ロシア語アワーが有意義であったと感じた。しかし、奥深いロシア語をもっと覚えるには、やはり専門の教師が必要であろう。

1年に6回、しかも1回10分という短い時間での勉強ではあったが、与えられた時間を最大限に活用でき、皆がロシア語を肌で感じ得た良い機会であったことは確かである。

2月例会  あいさつと自己紹介

こんにちは。                  Здравствйте!   
さようなら。                   До  свидания!
ありがとう。                   Спасибо! 
どういたしまして。               Пожалуйста.

3月例会  感情表現と受け答え

はい。                      Да.
いいえ。                     Нет.
いいですね!..                 Хорошо! 
よろしいですか。                Можно? 

4月例会  空港、ホテルにて

トイレはどこですか。              Где  туалет?
気分が悪いです。.               Мне  плохо.
お湯が出ません。       Не   идёт горячая  вода. 
私に…・・を下さい。.      Дайте  мне,  пожалуйста…. 

6月例会  道案内、ショッピング

とてもおいしいです。              Очень  вкусно.
いくらですか。                  Сколько  стоит?
ここで写真をとってもいいですか。
           Здесь  можно  фотографировать? 

7月例会  困ったときに…

警官を呼んでください。     Позовите милиционера.
どうぞここに書いてください。.  Напишите здесь, пожалуйста. 
私は…・をなくしました。             Я   потерял…・・.

9月例会  まとめ、復習

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ホームステイ

ホームステイ感想記                       大橋真人

私が、ホームステイした先は、37歳という若さで副市長である、アブラメンコ・アレキサンダー(通称サーシャ)さん宅でした。彼のアパートは8階にあり、チタ市の全景が見渡せた。エレベーターはなく、階段を息を切らせながら、一気にかけあがった。彼等が健康な理由が分かったような気がした。
 部屋は、台所、居間、子供部屋、寝室、便所、浴室があり、テレビ、ビデオ、カセット・デッキ、熱帯魚の入った水槽があり、窓には警察へ直通で危険を知らせる通信器具が付けられており、さすがVIPのアパートだなと感じた。


 あいにく、奥様と子供2人はバカンスで不在で、プレゼントをしても、喜んだ笑顔が見れず、残念であった。そのかわり、ミス・チタのイローナさんと彼女の母親が豪華な料理を作ってくれて、彼の友達といっしょに食事をした。日本人は、小食であることを説明しても、なかなか理解してもらえなかったのはつらかった。まして、お酒に弱いことを説明しても、こうやって飲めとばかりに、ウオッカの飲み方を教授してくれる始末。たぶん、最大の歓迎のつもりであることは推察できた。逆にそんなに気を使ってもらうと、こちらが恐縮してしまう。このことを、機会があったら彼等に伝えたいと思う。
 彼等のアルバムを見せてもらったり、こちらが、折り紙で鶴の折り方を教えて、階下にいる子供達めがけて飛ばしたり、楽しい一時を過ごした。ほんの一端ではあるが、彼等の生活を垣間見たような気がしてうれしかった。


ホームステイ先  オリガ(オーリヤ) 国際交流委員会 委員長 森岡文彦 

 オーリヤは22歳の小学校でドイツ語を教える新米教師です。チタ市訪問中は露日協会員として、ほとんど付き添ってくれました。彼女は、独身で、両親と弟とアパートに住み、部屋数は少ないですが、書斎兼居間があり、そこのソファーで寝ました。
 到着すると、まず、アルバムやパスポートを見せてくれました。パスポートは共産圏のみで使用でき、一生に2回更新するそうです。夏休みには、家族や友人と遠方に旅行しているようでした。
 食事については、料理の品数は多く、父親が釣った川魚の唐揚げもあり、おいしそうでしたが、残念ながら前日のパーティーのウオッカの飲み過ぎによる二日酔いのためにほとんど食べれませんでした。会話は、片言の英語を使い、双方が未知のことを思いつくまま質問しあいました。暑い部屋の中と涼しいベランダを何回も往復し真夜中まで、楽しい時を過ごしました。ホームステイで普段のロシア人の生活に触れることができましたが、もう少し長くホームステイできればもっとよかったと思います。


ホームステイの感想          国際交流委員会 委員  水野哲也

 私が、ホームステイした先は、通訳のアクロフ・セルゲイさんの家でした。家族は、奥さんと息子一人の三人家族でした。奥さんは妊娠しており、マトリョーシカのような体型でした。10月に訪日したイーゴリさんから男の子が生まれたと聞きました。来年訪ロした時は、四人の元気な顔を拝見できるよう願っています。
 セルゲイさんは、勤勉な方で、日本語・中国語・英語・ドイツ語・フランス語と5カ国語が話せて、まるで歩く電子手帳のような人だなあと感心しました。
 夕食は魚のカマスがしょうゆで焼いてあるのが出て、たいへんおいしかったです。私は、パックの味噌汁を持ってきたから、みんなでいただきましょうと言ったら、お椀とお箸が出てきたので驚きました。また、箸の使い方は、恥ずかしいことに、私より上手でした。
 セルゲイさんは、飲めない酒を夜中までつきあってくれて、ウオッカをぐいぐい飲み二人とも酔っぱらってしまい、カラオケで、日本の歌を歌い盛り上がっていたら、奥さんは怒った様子で先に寝てしまいました。どこの国の夫婦も一緒だなと思いました。
 期待と不安で一杯だったホームステイも楽しい思い出となりました。たとえ、国境があっても、生活習慣が違っても、思いとか何か通じるものが見えてきたような気がします。

愉快/痛快/誤解もいっぱい、ロシアにおける正しいホームステイ

                          事務局長  竹内祥泰

 ロシアにおいては、予定の急変は、当たり前と覚悟はしていたものの、二人一組で行われるはずの楽しいホームステイが(実のところが不安でいっぱいだったのだが)、受け入れ家庭多数により、急遽一家庭、一人となり、スパシーバ(「ありがとう」の意、)以外、とんと分からぬままにホームステイが始まりました。

母=年齢不明、ややマトリョーシカ(ロシアの民俗人形、ここではそういう体型という意)
   大学講師
長男=24歳、歴史学の研究生、将来大学教授を志望、細身のマークレスター?
二男=20歳、モスクワ電子工業大学4年生(2年飛び級している)、日本の電子工学が
    知りたくて日本語を勉強している、 の三人家族におじゃまさせていただきました。ラードのきついロシア料理に飽き飽きしていた私の胃には、菜食主義者の家庭料理は、とてもありがたいものでした(あまり、肉が手に入らないのだそうです)。実は、この料理、趣味(もちろん知多JCの接待)と仕事に忙しい母に代わって、長男(マキシム君)が作った物、家事のろくに出来ない日本の若い娘にぜひ紹介してあげたい青年でありました。
 家は、3LDK、5階建のアパート最上階、二男(ユーリー君)は、日本の建物には、すべてエレベーターがついているものと勘違いしており、知多市の市役所にもエレベーターはついておらず、両市はこの点でもとてもよく似ていると冗談で謙遜しておいたが、もっとひどい勘違いをさせてしまったのではないかと、今は、反省をしています。

「戻る」             (「1992年度国際交流委員会報告書」より)


墓参                     副理事長     竹内栄道         
 

 墓参は、日程の都合上、市営墓地・カダラ地区方面とノーバヤ方面と2班に分かれて行った。市営墓地・カダラ地区は昨年の視察団の折りにも訪れており、市内から近く、午前中バスで墓参を行った。市営第一墓地には、昨年の参加者の小熊・伊奈・近藤の3氏の建立された墓碑が、我々の要望通り、基礎をコンクリートで固めて整備されていた。カダラ地区は、同行された辻さんのお父上様の墓地のあるところである。広大な平原の中に、日本人墓地がコンクリートの台座を白く塗った形で存在する。一同、墓前に供花し、線香・ろうそくをともし、読経して霊を慰めた。

 ノーバヤ地区はご遺族(水野光子、馬場仲子、岩田志づ子、横地宏和さん)にJCメンバー2名、赤十字の職員、通訳を乗せた車を、チタの警察が先導し、3台の乗用車で向かった。ノーバヤ地区に入る所で、ノーバヤの警察が合流し、まず第一墓地へ向かった。今年は、赤十字の職員も同行し、第一、第二墓地の所在が判明した。昨年訪れた、川沿いの小高い丘の上のロシア人の墓地の中にあるのが、第一墓地であった。同行した岩田さんのご主人が永眠されている。供花し、ろうそく、線香を手向け、読経して霊を慰めた。

 ノーバヤ第二墓地は、赤十字でも判然としていなかったが、地元の警察官の手引きで判明した。そこは、私有地で、家屋の新築中であり、建築の基礎工事の折りに遺骨が出てきたという。同行した水野さんのご主人が永眠されているところなので、とりあえず、供花し、ろうそく、線香をともし、読経して霊を慰め、土などを拾った。

 その後、地主に建築の中止を申し入れ、遺骨の収集を申し入れた。しかし、問題は国と国との大きな問題であり、ひとまずひきあげ、帰国後マスコミ(中日新聞、東京新聞、東海ラジオ)を通じて訴え、厚生省へ陳情して、1ヶ月半後には遺骨を収集していただける運びとなった。

 ご遺族の方々は各々目的を果たされ、青年会議所にとってもそれをお手伝い出来たことで、大きな成果が得られたと思う。

「戻る」            (「1992年度国際交流委員会報告書」 より)


第2回知多・チタ友好視察団 参加者名簿



大橋  真人    知多市清水が丘  知多青年会議所 理事長(団長)

加古   斉     知多市八幡          同     直前理事長

青木  忠彦    知多市新舞子         同     副理事長

竹内  栄道    知多市南粕谷         同     副理事長

竹内  祥泰    知多市岡田          同     事務局長

森岡  文彦    知多市八幡          同         国際交流委員会
                                    委員長

水野  哲也    知多市八幡          同         国際交流委員会 
                                    委員

辻   嘉和     西尾市須田町           墓参

岩田 志づ子    岩倉市東町           墓参

横地  宏和    岩倉市東町           墓参

水野  光子    名古屋市中区錦        墓参

馬場  仲子    横浜市戸塚区            墓参

小島  啓一    知多市新舞子          一般

小島  茂子    知多市新舞子          一般

新美  宗彦    半田市勘内町          一般

東   佳世    名古屋市名東区高間町       一般

田中 かな子    東京都練馬区豊玉北        通訳

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