1991年度知多・チタ友好交流について 1991年度知多青年会議所

                          理事長  加古 斉

「尽きぬ思い出、尽きぬ想い」       第1回知多・チタ友好使節団

                          団長   早川泰生

知多・チタ友好交流をふり返って      社会開発委員会

                          委員長  竹内栄道

ロシアの思い出.                副理事長 大橋真人

知多・チタ友好交流事業の経過

覚書

第1回知多・チタ友好視察団参加者名簿


1991年度知多・チタ友好交流について
                              1991年度知多青年会議所 理事長 加古 斉

この事業の発端は、昨年の萩原茂裕先生の講演会からスタートしました。たまたま、先生に講演のための資料として、知多市制20周年の記念広報誌、「20通信」をお送りしたところ、その中の記事にソ連に同名のチタ市があるという記事があり、それを萩原先生が講演のあとの座談会の時に、まちづくりの一つのきっかけにしてはどうかと提案されました。
 国際交流について、調査研究をしようとしてしていたところなので、早速社会開発委員会で取り組むことになったのですが、その後の進行は、竹内栄道委員長はじめ委員会の熱意に運が味方し、誰も予想しなかった早さで進みました。
 この事業がここまでこれたのもこの運の強さと、それに伴う作業量を委員会の個々のメンバーがそれぞれに負担してきた賜物だと思います(言葉では簡単ですが、例年の作業量の3倍はあったのではないだろうか)。そして、そのような委員会をコントロールできた竹内委員長の能力の賜物だと思います。
 私も、この事業を通して貴重な勉強をさせていただきました。この事業を一生懸命すすめていくうちに、多くの人と出会うことができました。この人々との出会いは、この事業と同じくらい私にとって価値のあることだと思います。これは、国際交流の事業だから出来たことではなく、何の事業でも必死に、そして、一生懸命していけばそれを見ている人が助けてくれ、その人達が人の和となっていくということです。
 このような体験を委員会のメンバー個々もされて、私も、彼等が、去年の今頃に比べ随分成長していることに感心します(この委員会から、次年度の理事が四人も出ていることでもわかるのですが)。そして、このようにして育ったメンバーが各自の企業にこの能力を有効に使い、各自の企業を伸ばし、そして、それをまた青年会議所の事業にフィードバックしていただけるものと思い、この委員会のメンバーの今後の活躍を楽しみにしています。
最後になりましたが、今年1年間大変ご苦労さまでございました。 「戻る」

                                  (「1991年度 知多・チタ友好交流報告書」より)


「尽きぬ思い出、尽きぬ想い」

                               第1回知多・チタ友好使節団 団長 早川泰生

 中部新国際空港の話題がひっきりなしに飛び交う今日、隣接する市の住民としても、一見、豊かに見える日本の立場としても、私たちは、今、国際感覚を養わなければならない。国際感覚はともかくとしても、身の回りを、今よりもう一回り大きな目で、見直す意識を、市民の方々に持ってもらう、こんな発想がいつの間にかトントン拍子で、「知多・チタ友好」へと発展していきました。
 青年会議所の諸君より、少し年が大きいだけで、一般市民とのパイプ役として、同行させていただきました。選ばれた限りは何とか無事に帰り、楽しく、有意義な成果をおさめたいと、願っての参加でした。知多青年会議所だけのことでなく、一般市民を巻き込んだ展開と、一つ問題が起きれば、国レベルの信用問題にもなりかねないだけに、隣国との交流に携わっている人をはじめ、数人から十分に慎重な行動をとるように、アドバイスを受けての出発でした。
 「友好」であるかぎり、双方が気持ちよく行き来しなければならないし、日本的発想と国際的発想の常識は、大いに違うのでその点、失礼のないようにおつき合いをしなければなりません。また、混成団だけに、長旅で良くある緊張の糸の切れた時に、我が儘(特に目的終了後)が出るのではないか心配しましたが、そんな心配は無用でした。出発の際は、早朝から、知多市長をはじめ多くの方々に見送りに来ていただき、ことの重要さと、期待の大きさを痛感しました。歓迎レセプションではチタ市長、副市長をはじめ要人の歌や踊りはとても明るく、また、現地の青年との交流の場も、その隣にあったディスコ風の場所でも、踊っていた人々はとても明るかった。そして、私たちが戸惑わないようにいつも同じ案内役の人をつけてくれた気配り、その人たちはいつも笑顔で接してくれました。今、国内があのように大変な時なのに、あの明るさは、とても印象的でした。11月の産業祭りの際の「訪知多」の時もそうでした。あの底抜けの明るさは、照れ屋の日本人と比べると、素晴らしいと思いました。本来なら触れたくない、抑留者名簿の話を積極的に聞いてくれた赤十字の方々の姿勢も忘れる事は出来ません。日本の料理を作る時、いつの間にか一つに解け合って、一緒に使ったあの厨房と、あの人々とのあの一時はとても親しみを覚えたと、聞いております。「友好の記念碑」の除幕式の時、ノーバヤ元収容所跡を参拝して、帰りが3時間以上も遅れたのにもかかわらず、帰らずに待っていた副市長と代議員(チタ市は、愛知県ぐらいの面積の所だから、日本で言えば、副知事と県会議員と言ったところかな)は、怒った顔一つ見せませんでした。
 日本から手で運び込んだ重いステンレス製の碑の前で、今は亡き友との再会の喜びと、悲しみをかみしめた墓参の人々の美しい友情と一緒にあげた般若心経。この光景を見たら普通ではいられないでしょう。チタからウラン・ウ・デまでのシベリア鉄道では、知らず知らずのうちに、秋田県も、愛知県もなくなり、話に花が咲いた夜行列車(それにしても、秋田の人は、お酒に強い)。思い出の一コマ一コマが感動することばかりです。特に味・文化の交流での、あの素晴らしい動きと、移動時の乗降や墓参の時の心配りでは、さ・す・が…とでも言いたくなる程でした。「船頭多くして、船…・」との心配もあっただけに、来て良かったとの思いはひときわでした。そして、その感動は参加者はもちろん、都合により残念ながら国内に待機を余儀なくされた方々の惜しまない努力と、協力に支えられ生まれてきたことと思っております。
 今後の、「知多・チタ友好」のためにも、国際的日本の立場においても、墓地に積んだケルンの様に、この「知多・チタ友好」のケルンも積み上げていかなければなりません。今回の「訪チタ」、および「訪知多」はその一番下の石(意志)であり、この石(意志)が不安定であれば、立派なケルンはできあがらないでしょう。終始、一貫した惜しまない努力と今後の礎になっていただきたいと思います。単年度の役員改選と40歳卒業という青年会議所特有の問題点もありますが、少しでも早く、少しでも多くの市民が参加してもらえるように、まずは身の回りの人々に理解と協力を働きかけ、これをきっかけに姉妹都市が出来たり、いくつもの国と友好を結び、いつの間にか、「国際都市知多市」と呼ばれるようになった時には、市民意識もハイレベルになると思います。
後になりましたが、ご同行いただきました記者の方々に事細かな報道とご協力に感謝致すと同時に、皆さんのご理解とご協力にお礼申し上げます。地球は一つ、これからも一つの輪を大きく大きく育てたいと思います。
「戻る」                             (「1991年度 知多・チタ友好交流報告書」より)


知多・チタ友好交流をふり返って 

                                      社会開発委員会  委員長  竹内栄道

本当に、激動の一年でした。短くも感じ、充実した一年でした。加古理事長はじめ竹内慎治副理事長、また社会開発委員会のメンバーには、言葉では言い表せないほどのご苦労をおかけしたと感謝のちで一杯です。これもひとえに、ロムのメンバーの皆様の寛大な理解の賜物と思っております。
ふり返れば、「国際化された人づくり=まちづくり」を目指し、その手段として、地球上に2つしかない、知多とチタとの交流を1991年度の社会開発委員会の事業として取り上げたわけです。昨年の今頃は、未だゴルバチョフ健在のもと、ソ連邦の枠組みがあったわけです。中央集権が巌としてあり、ロシア共和国チタ州チタ市は、未開放都市として、ソ連軍の有力な基地を有し、外国人の訪問を許していませんでした。しかし、幸いにも、秋田県の京野氏という有力な知己を得、チタの地へ入ることができることとなり、まさに、トントン拍子に交流に向けての障害はクリアされていきました。
その間には、いろいろな方々との巡り会いがあり、また、「シベリア抑留」という、戦後、北方領土問題と共に、日ソ間に存在する未処理の大問題とも対峙せざるを得ない状況となりました。我々、青年会議所は、地域のため、国のため、何よりも明るい豊かな社会を築くため、活動しており、大きな意義付けからすれば、「国際化されたまちづくり」という目標からはずれることなく、むしろ、避けて通る ことのできない問題として、この「シベリア抑留」ということがあり、また、この問題が存在しているからこそ、知多・チタ交流は、より大きな意味を得たのだとも言えると思います。
「第1回知多・チタ友好視察団」は早川泰生先輩を団長として、上記の経過により多くの意義を持ちながら行われました。そして、その時の覚書きにもとづき、チタ市の訪日団を多くの難題(特に日本への入国査証発給)を幸運にもクリアして産業祭りに迎え入れることができ、知多市民の多くと交流することができました。
今、ソ連邦は崩壊し、ロシア共和国を核とする独立国家共同体なるものがそれに代わりました。まさに、我々の事業と時を同じくし、その激変を目の当たりにし、我々は得難い経験が出来たと言わざるを得ません。

が、国際交流には、まだまだ、国対国という高い次元の問題があり、ロシアの政治状況はこの交流に多くの問題を与え続けるでしょう。しかし、我々が1年間で得たもの、お互いの友情・信頼は必ず、それを克服してくれると信じています。

まだ、知多市の国際化は多くの市民の中で目を覚ますところまで来ていないかもしれません。しかし、「知多・チタ友好交流」の第一歩は記され、国際化へ向けての問題提起として、視察団の派遣・知多市産業祭りへの訪日団の招聘、と事業は展開していきました。なによりも、新聞、テレビ等マスコミに取り上げられ、本当に多くの方々との出会いがあり、そういうかたちで広く市民、そして、いろいろな団体の方々に我々の取り組みを知っていただけたということが、ひとまずの成果だと思います。

我々は、今後もっともっと多くの市民の意識に働きかけていかなければなりません。もっと多くの知多市民がチタ市を訪れ交流し、もっともっと多くのチタ市民が日本の知多市を訪問し交流しあう、地道に続けていかなければなりません。これからの、我々の子、孫の時代、カウントダウンの始まっている21世紀に向けて、まちづくりに国際化が必要だということは議論を待たないことだと思います。そのプロセス、位置づけ等々は今後の交流・取り組みの中で更に議論されてゆくべきだと思います。

チタは今頃―20℃ぐらいでしょう。ミス・チタのイリーナはこの間、「もう2ケ月牛乳を飲んでいない」、と言っていました。我々が訪問した時も本当に食料が無いということを目の当たりにしました。それでも、来日中の彼等は皆、堂々としていたし、自らの国を中傷することなく、とても友好的で、我々に大きな期待を寄せ、これからの交流を楽しみにしている、と語っていました。経済は、誰でもが分かる通りどん底です。しかし、私には、あの小学校でのロシアの歌を歌っていた彼等の姿、中学生達との語らいが目に浮かびます。企業見学の時の「日本に学ぼう」
という熱心な態度が思い出されます。市役所での、安藤市長・加藤企画部長との懇談での行政システムなどの会話の時の驚きの表情が忘れられません。

彼等は、友人としては、とても人間味のある優しい人ばかりです。しかし、彼等は友人であるにも関わらず、あまりにも困っています。しかし、また、我々と同じように、彼等はこれからのチタのまちづくりを真剣に考えているのです。否、我々以上に切実に取り組んでいるのです。私は、そんな彼等の活躍を交流を通して見つめていかなければならないと思っています。皆様の温かいご理解で交流は始まりました。今後共、皆様のご指導・ご鞭撻をお願い致します。一年間、本当にありがとうございました。 「戻る」

                                 (「1991年度知多・チタ友好交流報告書」より)


ロシアの思い出             副理事長  大橋真人



7月9日16時20分、ハバロフスクは雨だった。しかも、空港は排水施設がないためか、池のようになっていた。給油と入国検査のために入った待合室は、ペンキ塗りたてで、塗料と溶剤のおかげで、丸一日、頭痛に悩まされた。雨とペンキ塗りたての大歓迎であったわけである。
7月10日13時15分、チタ着。食文化の交流会の前に、炭酸水の湧き出る泉へ出向く。ここは、神聖な場所で有名。結婚式を挙げたカップルが人生の門出にこの湧水を飲みに来ていた。ほのぼのとした光景であり、ちょっぴり幸せを分けていただいたような気分になった。
7月11日、チタ市庁舎で覚書きの交換後、いよいよ、練習に練習を重ねた(約3回)尾張知多万歳の中の御殿万歳の披露である。皆、非常に緊張していた。**さんの**もあり、一時パニックになりかけたが、そこは外国でのこと、うまくカバーしたものの、いつもよりハイ・ペースであっという間に終わってしまった。やっている者には、ことのほか長く感じられたが、見る人達は、どんな思いで見ていられたことか?
しかし、終わった後のロシア人の温かいまなざしと盛大な拍手に送られ、出ていく時、「やったな」という感慨を抱いた。その後、シベリアに抑留され、ダモイ(帰国)を果たせずシベリアの大地に眠る人々の墓参があった。以前覚えた般若心経を読経し、心から慰霊に勤めた。帰国後、辺見じゅん著「収容所から来た遺書」を読み、涙がとまらなかった。夕方、チタの青年達と会食を共にし、楽しい一時を過ごした。マラート達との議論は圧巻であった。国を憂える若者の真摯なまなざしに感動するとともに、強烈な刺激を受けた。
7月12日知多・チタ友好の記念碑の台座の除幕式が、チタ市会議員等多くの方々の見守る中、厳粛に行われた。この台座の上に碑が立てられるのも、そんなに遠くない将来であると思う。
視察旅行を終え、悠久と時間と大地が続くシベリアに一種の郷愁の念を抱きながら帰国した。この地球上に、また、気になる町がひとつ増えたことを何よりもうれしく思っている。「戻る」 

                                  (「1991年度知多・チタ友好交流報告書」より)


知多・チタ友好交流事業の経過(1991年度)

平成 2年
11月     姉妹都市・姉妹JCの調査研究を1991年度社会開発委員会の事業計画の一つにすることを内定。
12月 2日  毎日新聞夕刊に「民間レベルで名簿、ソ連チタ州知事補佐官が贈る 秋田・湯沢」の記事を発見。
12月15日  秋田県湯沢市の京野 学氏と連絡。
12月20日  訪ソについて参加したい旨、京野氏へ連絡。
         京野氏よりソ連チタ州知事補佐官クズミン氏へ交流したい旨のTELEX打電していただく。 
12月27日  クズミン氏より受け入れる用意のある旨の返電がある。

平成 3年

 1月 4日  秋田県湯沢市の京野 学氏を訪問。
 1月 5日  (加古理事長、大橋副理事長、竹内慎治副理事長、竹内栄道委員長)
 1月 8日  知多市長へ交流の件打診。
 1月10日  知多青年会議所の理事会にて経過報告。  
 1月17日  日ソツーリスト今井氏、日ソ協会(愛知県) 多田副理事長と懇談。
 1月22日  知多市長へ親書の要請、快諾。
         知多市戦友会 内山JC・OBと懇談。
         知多市役所 企画課と懇談。
         新聞記者との昼食会にてPR。
         日ソ協会(愛知県)洞谷理事長、多田副理事長を表敬訪問。
 1月23日  クズミン氏へ交流したい旨、知多青年会議所 加古理事長名にて打電。
         秋田県知事が同じチャーター便で訪ソする件、今井氏より連絡をうける。
 1月24日  訪ソ日程が決まる。秋田空港より7月9日から16日まで。
 2月 4日  加古理事長宛にクズミン氏より返電(Invitation)。
 2月 6日  東京にて、日ソツーリスト 今井氏と意見交換(知多市長
         親書、加古理事長親書、知多市英文資料を託す)。
 2月15日  知多市役所内記者クラブにて知多・チタ友好視察団の概要、団員募集を発表。
 2月16日  クズミン氏に交流内容についてTELEX打電。
 2月18日  友好視察団の団員の一般募集開始。
 2月19日  加古理事長主催 ロシア料理の夕べ開催。
 3月 8日  ソ連映画祭観劇。
 3月23日  日ソツーリスト 今井氏帰国。報告、意見交換。
 3月31日  友好視察団の団員募集締め切る。
 4月 2日  東海テレビより、チタ市のTV局との提携の話があり、
         竹内栄道委員長に親書が託される。
 4月 3日  4月22日午後、チタ市TV局代表4、5名、知多青年会議所を表敬訪問したい旨打診あり。
 4月12日  竹内栄道委員長、訪ソ(予備折衝)。
 4月14日  チタ市にて、赤十字、鉄道省と懇談。
 4月16日  チタ市役所訪問。副市長、国際部長、文化部長らと懇談。
         交流内容について交渉。(知多市長の親書を渡す。)
         TV局 アンテナを訪問。訪日時の件、打ち合わせ。(東海テレビよりの親書を渡す)
 4月19日  竹内栄道委員長帰国。
 4月22日  TV局 アンテナ訪日団、来市。臨海部見学、市役所表敬訪問、市内見学後桝磯にて懇親会。
 4月24日  知多市長に竹内栄道委員長、帰国報告。
 4月26日  東京にて、京野氏、日ソツーリスト、墓参団代表伊藤氏、
         岩崎氏と帰国報告を含む懇談。
 5月25日  知多・チタ友好視察団説明会(必要書類徴集)。
 6月23日  新聞紙上で、シベリア抑留で亡くなった方々への墓参につき、供物の引き受けを募集。
 6月28日  チタ市と交流する時に披露するため、地元に伝わる無形文化財の「尾張知多万歳」の練習をする。
 6月29日  尾張知多万歳練習。
 7月 7日  同上練習。
 7月 9日  知多・チタ友好視察団 出発。
 7月16日  同上視察団       帰国。
 7月18日  知多市長に帰国報告。
 8月 1日  知多青年会議所 理事会にて帰国報告。
10月 6日  (社)日本青年会議所 岡田伸浩副会頭次年度予定者と懇談(全国会員大会中 於東京)。
10月14日  萩原茂裕先生と浦和で打ち合わせ(加古理事長、大橋副理事長、竹内栄道委員長)。
10月15日  外務省秋元氏、起山氏と懇談
        (日本JC岡田副会頭予定者、加古理事長、大橋副理事長、竹内栄道委員長)。
         チタ市にTELEXで招聘文打電。
11月 6日  外務省 起山氏に関係書類提出。受理される(加古理事長、竹内栄道委員長)。
11月13日  チタ市訪日団来日。


11月16日  知多市産業祭り(「ロシアを語ろう」)。
11月17日  同上(チタ川洪水募金)
11月20日  チタ市訪日団帰国。
11月26日  外務省 起山氏に帰国報告(竹内栄道委員長)。
12月 2日  12月例会にてチタ市訪日団帰国報告、お礼、報告書作成。


覚   書

知多青年会議所とチタ市は同名都市に住む住民として、民族、国家、文化の違いを乗り越え、相互に理解しつつ交流を深めるものである。知多青年会議所と、チタ市は両組織の友好協力関係を基軸にし市民一人一人との心の触れ合いに基づいた、相互の信頼関係の構築を目指すものである。

知多青年会議所とチタ市は上記に基づき、今後の交流について以下の点で合意したものである。

第1条 受け入れ側は、派遣側の全員で5名以内の代表者の受け入れを行う。                  

     派遣側はこの枠内で代表者の他に外部のを派遣することが出来る。

第2条 派遣側は往復の切符を購入し、受け入れ側は宿泊費、交通費、3度の食事、必要な場合の医療費を負担する。                                                         

 第1項  宿泊において、部屋の中の飲物、部屋の中の電話、あるいはホテル内における個人的な経費の支払いについては、派遣側個人が負担する。

 第2項  入国後、移動のための交通費は受け入れ側が負担する。

 第3項  食事については、朝食、昼食、夕食の3食、またはそれに代わるパーティー費用を受け入れ側が負担する。                          

 第4項   派遣側は通訳を1名用意する

第3条 派遣側メンバーは同一行動を取る。

第4条 実施する交流の内容と滞在日程は双方の要望と条件を考慮して決める。

第5条 期間の変更については、3ケ月前に必ず日程を知らせることにする。

第6条 知多青年会議所」が訪ソ友好団(ミッション)派遣を希望する場合は、受け入れ側は、第4条、第5条に準じて交流を図るものとする。

本覚書はチタ市と知多青年会議所との協力に関する文章であり、1991年7月11日より1992年12月31日までの効力を有する。

 

1991年7月11日                                                                                                   

知多青年会議所 理事長  加古 斉     チタ市長   チモフェーエフ               

次年度理事長予定者    大橋真人




第1回知多・チタ友好視察団参加者名簿
団 長      早川  泰生    知多市新舞子     知多青年会議所・OB
理事長     加古   斉     知多市八幡      知多青年会議所
直前理事長  松本 冨三翁    知多市新知           同
副理事長   大橋  真人    知多市清水が丘        同
副理事長   青木  忠彦    知多市新舞子          同
副理事長   竹内  慎治    知多市岡田           同
理 事     竹内  栄道    知多市南粕谷          同
理 事     新美  範恭    知多市岡田           同
理 事     加藤  勝久    知多市にしの台         同
委 員     蟹井  正彦    知多市佐布里          同
委 員     竹内  祥泰    知多市岡田           同
委 員     蟹井  教弘    知多市八幡           同
報 道     広中  利訓    知多市にしの台      朝日新聞記者
報 道     妹尾  浩和    東海市高横須賀     中日新聞記者
墓 参     下野 ゆき子    名古屋市西区         ノーバヤ地区墓参
墓 参     下野    学     名古屋市西区      ノーバヤ地区墓参
墓 参     伊奈    茂     岡崎市          チタ市抑留経験者
墓 参     小熊  謙二      東京都八王子      チタ市抑留経験者
墓 参     近藤  寿一     山口県吉敷郡      チタ市抑留経験者
市 民     竹内  卓美     知多市岡田
市 民     竹内  素子     知多市岡田
市 民     長谷川 清治    犬山市
市 民     山口  義雄     名古屋市緑区
市 民     水野  秀子     尾張旭市


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