KYS 推薦図書・映画の部屋 96/08/18 23:15

026/026 KGH10661 大橋真人 読書の小径 その38 「潮風の一本道 うめさんの魚料理の城づくり80年」 


 8月9日(金)、10日(土)、11日(日)に愛知県半田市で、森 信三先生生誕100周年記念全国大会が開催されました。それに、便乗して1994年度(社)日本青年会議所 まちづくり応援室 まちづくり研修プログラム委員会 第三小委員会(陶山副委員長)の同窓会「ひかりクラブ」(と命名)の第1回例会を知多の地で開催することになりました。陶山和之副委員長(今年度、(社)鳥栖青年会議所理事長、次年度 佐賀ブロック協議会 会長予定者)のたっての希望で、宿泊先は南知多町の料理旅館「まるは」と決まりました。そして、「まるは」のおばあちゃん 相川うめ さんの話がぜひ聴きたいとの要望でした。
 偶然というか、必然というか、4月に私は土地家屋調査士会の知多支部総会で、「まるは」へおじゃましていました。懇親会の席上で、相川うめさんは、お客さんに挨拶をしながら一巡して、私のところへ来てくれました。その時、うめさんに、「報・連・相」の話、「両道を行く」ことの大切さを教わりました。8月にまた友人を連れてくるから話をして欲しいとお願いしました。そうしたら、快く承諾していただきました。
 三田村博史著「潮風の一本道 うめさんの魚料理の城づくり80年」(風媒社刊)に相川うめさんの波乱万丈の人生が描かれています。うめさんの話のなかに、商売の神髄、心のあり方など示唆に富んだ話が一杯ありました。たとえば、魚の行商で、豊浜から名古屋へ電車で向かう途中、うめさんは往復の時間を有効に使いました。「この時間はもったいない。座って居眠りしとってはもったいない。・・・。わしはこの往復3時間を人と話をすることにした。誰でもいい。誰か話相手を見つけて話かける。人と話をする。こんな勉強になることはない・・」そして、うめさんは学んだことを実践していったのです。もちろん、話をしてくれた人たちは、「まるは」の大切なお客さんになっていただいたとのことです。
 母親のいとさんからうめさんは、「人のありがたがることをやれ。人に喜ばれることをやれ」と小さい頃から教えられて育ちました。「まるは」の生い立ちを見ても、そのことが窺えます。魚屋から始まった「まるは」は、店に魚を買いに来た客の中でその場で、魚が食べたいという人がいると、大将が刺身を切って出したり、魚を焼いたり、蟹をゆでて出したりしたと言います。望む人には、飯をよそって食べさせました。うめさんは、自分の畑でとった大根の漬物を添えて出しました。そのうち、頼まれて、酒を出すようにもしました(今でも、持ち込み料なしで、お燗もしてくれます)。昭和32年には食堂として申請し、保健所の検査を受けるようになりました。そのとき、うめさんは風呂のサービスを始めました。「入ってき、入ってき」というとみんな喜んでくれたと言います。
 もともとが魚屋だから、自分のところで仕入て自分のところで料理する。新鮮なのは当たり前で、おいしい魚を食べて酒を飲んで、風呂へただで入れば、眠くなる道理です。「泊めてくれっ」ていう客が出て来たそうです。「よっしゃ、泊まってけっ」て最初は言った。「客が頼むんだでそれには応えなならん。客に喜んでもらうのが商売だでな。」 (P172
今の、料理旅館「まるは」はこうして客が喜ぶことをベースに発展してきたと言えると思います。うめさんが歩いてきた道程に困った時に、必ず救いの手がさしのべられたのは、不思議なくらいですが、これもうめさんの人柄と、日々の研鑽によるものと思われます(こうしたことにも、必ず意味があると思っています)。
 みなさんも一度、南知多町の「まるは」の新鮮な魚を食べに来られてはいかがですか?そして、相川うめさん(現在85歳)の話を聴かれて感涙するのも一興かと思います。

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