【MOMOの部屋】 96/07/08 23:14

272 KGH10661大橋真人 読書の小径 その37



 朝、学校に着くと、数人の中学三年の男子生徒が待っていてくれるようになりました。私の荷物を持ってくれたり、私に手を貸したり、私の体を支えたりして、二階の職員室まで、私を連れていってくれるのです。どんな寒い日でも、雨の日でも、彼らは待っていてくれました。・・・・授業が始まる前には、生徒たちが私を迎えに来るようになりました。(須永博士著「教壇」七賢出版P22-24)と、紹介されているのは、難病と闘いながら教壇に立つ崎坂祐司先生です。
 崎坂先生は、アミロイドーシスという難病で、発症から10年から15年で死を迎えるという病気のために、最初は足に痺れが出、次第に足から全身に広がり、手の指も次第に動かなり、車の運転ができなくなってしまいました。しだいに進行する神経障害のため、子供らが書いてきた日記に言葉を添えてやることができず、納得のいかない授業はしたくないと考えていた先生は、学校へ行くのが辛くて辛くて、「辞めたい」と妻や母に訴えたそうです。 そんなとき、1年間で千ページ以上の学級通信を出し、それを通して子供らと、そして、親達と”人間について”、”人生について”語り合っている同僚の奥村稔先生から、「あんたしか、出来ない教育があるのじゃないか。この世にたくさんの教師がいても、あんたしかやれない子供たちとのかかわりあいかたがあるのではないか。」と言われた時、崎坂先生の目からウロコが落ちたといいます。
 中学校の卒業式の日、何かと問題の多かった生徒が最後の挨拶に来てくれたといいます。彼は、野球部の子供たちを見て、崎坂先生と一緒に階段を登ってくれた一人です。先生には、とても問題のある生徒には見えなかったといいます。
 ある時、彼は養護教諭に、「早く俺、バイクの免許を取るよ。早くバイクを買って、サイドカーに崎坂先生を乗せて学校の送り迎えをしてやるんだ。」と言ったそうです。
卒業式が終わってお互い顔を見たとき、そんなことが思い出されて二人で、ぽろぽろ泣いてしまわれたそうです。(P64
私は、ここまで読んで、もらい泣きしてしまいました。
 そして、崎坂先生は「こんな素晴らしい子供たち、そして先生方と出逢うことができたから、限界での体で、もう一日、もう一日と力をふりしぼって教壇に立てたのではないか」と述懐してみえます。また、「こんな体になったとき、初めて子供たちと一体になって教育をやっていこうという決心が持てたのです。」とも言われます。肉体の生死が問題なのではなく、どういう人生を生き、そこから何を学んだかが重要であると思います。そして、後進の者たちが、その人生からどれほど発奮させられたかが大切なことであると思います。素敵な書物で、こころを磨くことができ、今日も良き日でした。
感謝。

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