USHIMOMO 推薦図書の会議室 96/05/26 19:04

00158/00158 KGH10661 大橋真人 読書の小径 その32 「教育は死なず」


 信州は昔から教育に関しては、進取の傾向があるように思います。
私は大学生の時、「展望」という月刊誌を購読していました。編集長は確か臼井吉見氏だったと思いますが、彼が書いた「安曇野」(筑摩書房)という小説の中に井口喜源治というキリスト教を信仰する教育家の話が出てきます。また、「安曇野」の中で常念岳や白馬岳の記述を見つけ登山したり、禄山美術館、わさび畑、野仏を観にいったことがあります。
 私は、「教育は死なず」という長門裕之が出演していた映画を、以前テレビで観たことがあります。途中からみたので、最初の部分が分からず、残念な思いがしましたが、その後、同名の若林繁太著「教育は死なず」(労働旬報社)があることを知り、本屋さんに注文しました。正・続・続々と3冊刊行されていますが、教育の現場でのすざましいまでのやりとりの中に、「どこまでも子どもを信じて」いく教師の群像があり、救われる思いがしたことを記憶しています。
 1978年3月5日、長野県篠ノ井旭高校の卒業式後の送別会の席上、生徒代表として挨拶に立った者が「僕は駄目人間でした。希望も目的もなく自暴自棄になっていた僕を救ってくれたのは、この学校です。その僕が今、ここに・・・・」と言って、絶句したまま後を続けることができなかったといいます。 また、この生徒代表の父親が父兄代表として、「私は・・・・子どもを拾った思いです。親として・・・こんな嬉しいことはありません・・・」と訥弁で一語、一語を確認するかのように間をおきながら挨拶したが、後は沈黙してしまったといいます。周囲はシーンと静まりかえり、言葉を待っている。しかし、いつまでたっても声が聞こえない。テーブルの上にポタポタと水滴が落ちて小さな輪をつくっている・・。遠くで一人、「言葉の無い挨拶ほど素晴らしい挨拶はない」と発言したのをきっかけに、割れるような拍手が起こったといいます。若林先生はそれを視ておられ、父親の気持ちを読みとって、こういいたかったのだろうと著書に書かれています。(p14
「この子には長い年月泣かされとおしでした。そして、この子の将来に絶望を感じた時代もありました。こんな子が居なかったらと深夜、夫婦して泣いたことも一度や二度ではありません。そんな子が、このようにすばらしく変化してくれました。今では、私達夫婦の宝です。私どもの誇りです。奇跡としかいいようがありません。こんな変革をなしとげた学校に感謝の言葉もございません。ただ、有難うございましたというのみです」と。
 非行ゼロ、退学ゼロ、一人も落ちこぼすなをめざして取り組む姿勢の中である教師は発狂するところまで自分を追いつめることがあったようです。壮絶なまでのその活動記録は著書にまかせることにしたいと思います。
 その若林繁太先生が、愛知県の豊川高校に赴任されたと聞き、さっそく講演依頼におじゃましましたが、快諾していただきました(これも些少の講演料でした)。1988年度(社)日本青年会議所 東海地区 愛知ブロック協議会 心を育てる教育問題委員会では「教育の現状」というお話をしていただきました。
 現在も「人間教育」を標榜して理想を高く掲げ、教育現場でご活躍してみえるとお聞きしています(一時、身体の具合が悪かったとお聞きしましたが)。若林繁太先生のご健康と、ご活躍を祈念しています。

追伸  どなたか、映画「教育は死なず」のビデオの入手方法をご存知の方がおみえでしたら教えていただきた    いと思います。教師を目指している娘(中3)と、もう一度観てみたいと思います。よろしく、お願いします。

電子メール mahito@mb.infoweb.ne.jp

「戻る」