USHIMOMO 推薦図書の会議室 95/10/15 21:40

00047/00047 KGH10661大橋真人  読書の小径 その6 「収容所から来た遺書」



 岩波書店から「広辞苑(第4版)」が1991年11月15日に刊行されていますが、最近になって、日本の知多(愛知県)とロシア共和国のチタが並記してあることを発見しました。知多とチタの交流のきっかけは、萩原茂裕先生(まちづくりの「種蒔き人」として有名)の座談会での「ソ連にチタという名前のまちがある。交流してみたら」という一言でした。1990年当時は、ゴルバチョフ大統領の時代で、ペレストロイカ、グラスノスチ華やかなりし頃であったとはいえ、どこをどうたどっていけばよいか正直言って分かりませんでした。私が所属していた知多青年会議所の、当時の社会開発委員会の委員長は、毎日ソ連大使館へ連絡を取っていました。しかし、居留守を使われ、なんら進展は見られませんでした。
 そんな折、毎日新聞社の夕刊の小さな記事が目に止まりました。チタ州の知事補佐官のクズミン氏が、シベリア抑留による死亡者のリストをゴルバチョフ大統領(翌年春)よりも早く、その一部を持ってきた記事でした。クズミン氏の訪日は秋田県湯沢商工会議所会頭 京野正樹氏の招請によるものでした。
 早速、委員長に湯沢ルートをアドバイスしたところ、今までのことが嘘のようにとんとん拍子に事が進んで、1991年7月9日に、秋田県知事、ヤゴタ会(シベリア抑留の遺族会)、と共にチャーター機で秋田空港から出発することが出来ました。中日新聞社の記者も同行し、その間の報告記事として7月23日から27日にかけて「知多チタ友好の旅 JC外交の成果と展望」が掲載されました。
 我々は食と文化の交流ということで、てんぷらを揚げたり、尾張知多御殿万歳を練習し、彼の地で演じました(レーニンの写真が掲げてあるチタ市役所のホールで)。今からすると、なつかしい思い出です。チタ市と「覚書き」を交わし今後の交流を約束しました。ソ連の若者は資本主義を学びたいと我々に熱心に訴えました。彼等の真摯な態度に感動したことを覚えています。あれから今年で5年目になります。
 この間、毎年秋の「知多市産業祭り」に訪日団を招請し、ミス・チタを含む団員は知多市の市民の家庭にホームステイを体験したり、市内小中学校へ表敬訪問し、熱烈な歓迎をうけたりして交流の輪が広がりをみせています。(私の家にも3人の女性がこの間、ホームステイしています。)
 名前が同じという切り口で始まったこの事業も毎年素晴らしい成果を収めています。

 ちょっと素敵なまちづくり、それはちょっと「素敵な顔」を持てるまちづくり

 我々は、この事業を通して、知多市にちょっと「素敵な顔」をつくろうと思っています。愛知県常滑市沖に21世紀初頭に「知多」国際空港が開港した時、知多市には「ロシア通り」があり、そこへ行けばロシア風町並みがあり、ロシア料理が食べれてロシア民謡が聞けて、ロシア民族舞踊が見れる。そして、知多市の市民には、ロシア語が話せて、ロシア文学をこよなく愛す人が多い。ロシア人は、「知多」国際空港を降り、必ず知多市へ立ち寄る。こうしたことは、ちょっと「素敵な顔」であると思います。他方、両国の間には、悲惨な歴史があることは承知しています。たとえば、辺見じゅん著「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(文藝春秋)、澤地 久枝著「わたしのシベリア物語」(新潮文庫)神渡 良平著「はだしの聖者」(致知出版)を感動と涙なしには読めませんでした。
 京都の天龍寺に毎年10月10日に集まる人々がいます。最初の年に一緒の飛行機に乗り合わせたヤゴタ会の皆さんによる慰霊法要が行われているのです。1991年10月10日、会長代行の方が、「我々は感激と悲痛の念を抱いて帰国しました。感激とは戦後40有余年過ぎ、その間ずうっと墓参を果たしたいと努力してきて、その甲斐あって初めて叶った感激であり、悲痛とは、遺骨収集の予備調査ということもあり、1メートルも掘れば永久凍土から白い歯のついた頭蓋骨が出てくる。それを、持ち帰って法要したかったが、それを果たせなっかた悲しみである。」と涙ながらに報告された時、そこに参会した者はすべて感涙しました。
 我々の知多・ЧИТА(ロシア語の「チタ」)友好視察団の目的の一つは、シベリア抑留で亡くなられた方々への遺族の墓参のサポートであり、いま一つは知多・チタ友好交流の拡大にあります。平和であることに感謝し、我々や子供の時代に2度と同じ過ちを繰り返さないようにこの交流が役立てば良いと考えています。
 今年も10月28日から訪日団を迎えることが出来ます。今後の交流の拡大が、東京の武蔵野市の皆さんが行われた「ハバロフスク自然探検隊」(東京新聞出版局)のような子供達の交流に発展していけばいいと思います。 

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